聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書 汚れた霊に取りつかれた男をいやす

2006年01月02日 | 新約聖書日記
◆汚れた霊に取りつかれた男をいやす
『 1:21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
1:23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
1:27 人々は皆驚いて、論じ合った。
「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
1:28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。』

新約聖書略解をまとめて
『ここから始まる1・21節~38節までは、イエスの具体的な働きを「カファルナウムの一日」として描く。
安息日午前中のユダヤ教会堂での悪霊追放(21~28節)、
昼ごろのシモンの家での癒し(29~31節)、
日没後、都市中の人々に対する癒しと悪霊追放(32~34節)、
翌日、他の町々へ出発(35~38節)である。
39節で、イエスが全ガリラヤへ宣教したことが短く言われるが、
読者は、ガリラヤの各町々で、カファルナウムの一日と同じような働きをしたと理解するよう期待されている。

イエスは会堂で「教え」、居合わせた人々は「非常に驚いた」という。
「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」
「権威」は「・・・することが許されている、自由である」を意味する動詞と関連する。
この「権威」を具体的に明らかにするために、悪霊追放物語がここに導入される。
悪霊追放は、病気の癒しと明確に区別されるべきである。
そこには悪霊とイエスとの戦いがある。
「汚れた霊」は、イエスの名と本質を見抜いていることを誇示して、イエスを支配しようとする。
特に重要なことは、「ナザレのイエス」の登場を悪霊全体の危機と認識していることである。
悪霊追放物語は、悪霊の攻撃に動じず、権威を持って悪霊を叱りつけ、追放するイエスを描く。
最後に人々の「喝采の叫び」で終わるが、ここでは「これは何か」と「論じ合う」形式である。
「・・・権威ある新しい教えだ。
この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」でなく、
むしろ「汚れた霊たちにさえ(彼は)命令している、そして(彼らは)服従するのだ」と二重に驚く。
複数形の悪霊、現在形の作文は一つの奇跡を越えた事態を指示する。
その内、「権威ある新しい教えだ」は、冒頭の驚きとつながり、
今、生起した奇跡が、最初に人々が驚いたイエスの教えの中にあった「権威」の実証となる。』

恵み深い天の父なる神さま
権威ある新しい教えを、わたしたちへ与えてくださった、主なるイエスさま、
感謝です。
わたしたちを救うため、世へ来てくださった神の独り子イエスさまに感謝です。
わたしを救い、そして導き、いつも共に苦しんでくださるイエスさまに、感謝です。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをささげます。
アーメン


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