聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書 断食についての問答

2006年05月30日 | 新約聖書日記
◆断食についての問答
『 2:18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。
そこで、人々はイエスのところに来て言った。
「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
2:19 イエスは言われた。
「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。
2:20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
2:21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。
そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
2:22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。
そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」』(日本聖書協会 聖書 新共同訳 マルコによる福音書から)

「新約聖書略解」日本基督教団出版局 をまとめて
『イエスを囲む楽しげな食事の場面に続いて、断食をめぐる論争が来る。
断食は、食事を断わって神の前にへりくだる行為であった。
しかし、いつしか敬虔さの表現となり、信仰者の業績となった。
ファリサイ派は、週に2回断食した。
イエスの答えは大きく、19節以下と、21節以下とに分かれる。

前半、イエスは弟子たちを花婿と一緒にいる「婚礼の客」、むしろ「花婿の友人たち」にたとえる。
イエスを花婿として迎えた人々にとって、断食は全くふさわしくなくなる。
この喜びがまた、神の支配の特色である。
しかし、イエスは、論争を仕掛ける人々の頑なさのために、花婿が奪い去られ、イエスの弟子たちも断食する日が来ることを予告する。

後半、イエスの宣教がもたらす神の支配を、「織りたての布」、実際は「縮絨工程を経てない布」と、「新しいぶどう酒」、つまり発酵中のぶどう酒とにたとえる。
未完成なほどに新しいものは古いものにあわない。
神の国の新しさは、今まで有効だったものを古いものに変え、そして全く新しい対応を要求している。』


お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神様
イエスさまによる、新しい神の国の到来を思います。
律法を守ろう・守らせようとするところから、どんどんと形骸化してしまった人々の信仰を、
本来の神の愛に満ちた信仰に、わたしたちを導いてくださるイエスさまに感謝です。
イエス様を思い、愛ある信仰に立ち戻れますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン


マルコ福音書 レビを弟子にする

2006年05月09日 | 新約聖書日記
◆レビを弟子にする
『 2:13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。
2:14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、
「わたしに従いなさい」と言われた。
彼は立ち上がってイエスに従った。
2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。
多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。
2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
2:17 イエスはこれを聞いて言われた。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」』
(日本聖書協会 聖書 新共同訳 マルコ福音書より)

新約聖書略解をまとめて
『ここで徴税人レビが招かれる。
律法に即した「正しい」生き方をする義人と対比された罪人がいる。
徴税人も「異邦人」との接触の多さなどから罪人に数えられる。
イエスが「食事の席に・・・」は、食事のために「横たわる」ことで、
多くの徴税人・罪人も彼と弟子たちと「一緒に横たわっていた」。
「実に大勢の人が・・・」は、徴税人・罪人にかけることができる。レビの追随は、その模範例である。
そこに律法に従って生活しない罪人から自らを分離したファリサイ派律法学者が登場して「どうして・・・」と問う。
律法に従い、義人として生きる自負から発せられた問いである。
それに答えるイエスの言葉の前半は、癒しを求めて殺到した人々を想起させる。
罪人として排除された人々には、それ以上の切望があろう。
後半は、義人であるために、罪人を作る人たちに向けて、
そのような差別が作られるところで、イエスとイエスを派遣した方(神)はどちらの側に立つかを明らかにする。
ここで再びレビの招きが模範的実例となる。
そこにも神の支配の特色が見える。』

昨日の投稿でわからなかったことが、やっと分かってきました。
昨日の箇所から、神の支配の特色をひとつづつ表していかれているのだと分かりました。
昨日の聖書の箇所では、
病気と罪との連関から解放される神の支配の特色を表されて、
今日の聖書の箇所では、
イエスさまと神さまは、罪人の側に立たれることを表されています。
お祈りします。
天の父なる神様
神の愛を知らせてくださって、感謝です。
律法を守る正しさを求めて、律法を行えない罪人を差別したり排斥したりすることを良しとせず、
罪人の側に立って、赦し愛してくださる、神の愛に感謝です。
人間は、律法を守ることができない弱い者でありますが、その弱さをを知り、赦し、なお愛してくださる、神の愛を思います。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン

マルコ福音書 中風の人をいやす

2006年05月08日 | 新約聖書日記
◆中風の人をいやす
『 2:1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2:2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。
イエスが御言葉を語っておられると、
2:3 四人の男が中風の人を運んで来た。
2:4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
2:6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
2:7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
2:8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。
「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
2:9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」
そして、中風の人に言われた。
2:11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
2:12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。』(日本聖書協会 聖書 新共同訳 マルコによる福音書より)

新約聖書略解をまとめて
『「四人の男が中風の人を・・・」は誤訳で、
不特定多数の人々が「四人に担がれた」人を運んでくる。病名も特定されておらず、何らかの理由で「(半身が)麻痺した人」である。
本来は、五節前半から十節末あたりにつながった、癒し物語であったと思われるが、中間部が二次的に挿入されて、論争の要素が持ち込まれた。

「あなたの罪は赦される」。これは未来形的に響くが、原文は現在形で、「赦されている」という赦しの宣言である。
病気は、その人の罪(複数)の結果という理不尽な考えが前提されている。
その赦しは神のみに可能である(詩編103・3など)。
しかしイエスは、病人を二重に苦しめる病気と罪の連関から彼を解放する。
この解放が神の支配の特色の一つである。
居合わせた律法学者たちが、彼は「(神を)冒涜している」と判断する。
それは死に値する罪である。(レビ24・10以下など)
しかしイエスは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と語って、全員の前で、命じる言葉によって、癒しを実現する。
「知らせよう」は「(あなた方が)知るために」で、
この奇跡は、彼が神から「権威」、ここではむしろ「全権」を委ねられていることを明らかにする。

喝采の叫びに際して、「神を賛美した」と言われるとき、
人々も、イエスの働きの中に、彼を通して働く神の意志と力を見出している。』

どうも、お祈りが出てきません。
いつもは、聖書を読んで、ここに投稿を書いて、静かに瞑想していると、お祈りの言葉が出てくるんですが、
ちょっと解説で分からないところがあるので、ひっかかっています。
ので、
ちょっと、「病気」と「罪」について、調べますm(_ _)m
次は、聖書思想事典を調べて、まとめて、投稿します。