聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

スタディバイブル

2006年07月23日 | 本の感想
わたし、いろいろな種類の聖書を持ってるんですが
(新共同訳・口語訳・新改訳・和英対象・文語訳・リビングバイブル・アートバイブル・旧約続編付き聖書など)、
その中に、スタディバイブル(四福音書 新共同訳)900円っていうのがあって、これが結構よいのです。
本文の横へ、分かりやすく言葉の解説が短く書かれています。

で、調べてみたら、
9月に、旧新約聖書のスタディバイブルが出版されるみたいで、
ちっとお高いんですが、買いたいなあ。。。と思っています。
(最初の期間限定で、ちっと値引きはされるみたいですね)
楽しみ(o^^o)

百万人の福音 8月号

2006年07月22日 | 本の感想
百万人の福音8月号

7月号から始まっている連載、
「秋に見つけたまわり径 40代からの新しい出発 リン・バーブ著」が、やっぱりよかったです。
こころが軽くなりました。
自分ではコントロールできないことが多くやってきます。
これは、歳をとると、どんどん分かってくることですね。
そして、不安が増していきます。
でも、自分の計画したり、努力して向かっていないところから、予期しない喜びや驚きの瞬間というような、神さまからの大切な贈りものがもたらされる、
といった、そういう意味のことが書かれていて、
とても、穏やかで、落ち着いた気持ちになりました。
自分の計画ではなかった「遠回りの人生」への導きに、感謝することができますように。

神を信じれること、祈れること、信頼できるということに、
感謝をして、これからも信頼していきたいと思いました。

まだ、連載はつづきます。

マルコ福音書 十二人を選ぶ

2006年07月20日 | 新約聖書日記
◆十二人を選ぶ
『 3:13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
3:14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。
彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
3:15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
3:16 こうして十二人を任命された。
シモンにはペトロという名を付けられた。
3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
3:18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。』(日本聖書協会 聖書 新共同訳 マルコによる福音書より)

新約聖書略解(日本基督教団出版局)をまとめて
『十二人制定の目的が、第一に「そばに置くため」、むしろ「彼と一緒にいるため」、
第二に「派遣」するためである。
後者には「宣教する」ことと「悪霊を追い出す権能を」持つという二つの不定詞句が付く。
「権能」は1・22などの「権威」である。
この十二人制定の目的表示は、6・7以下の十二人派遣と文字どおり対応し、両者の密接な関連を示す。
十二人の名前は、シモンとゼベダイの子らが筆頭に来て、シモンの兄弟アンデレが第四位にくるなど、序列リストの側面がうかがえる。
最後にくるユダには、彼が「イエスを裏切った」と既に記される。
「裏切る」は「引き渡す」である。イエスの運命がここでも既に明示されている。』

「新聖書講解シリーズ2マルコの福音書」(いのちのことば社)をまとめて
『イエスが十二弟子を選ばれたのにはどんな目的があったのか、3つに絞って見てみることに。

第一に、それは弟子を訓練するためである。
「彼らを身近に置き」とあるように、生活を共にしながら十二人を教育し訓練するためであった。
イエスはいっしょに宣教の旅を続けながら彼らを教え、訓練された。これは教育の原点であり、訓練の本質である。
イエスが弟子たちを訓練されたのは、しだいに増大していく群衆の必要に応じるためであった。
このイエスの働きはこの後彼らを通して世界的にも歴史的にも大きく広がり、今日までに至っている。

第二に、それは福音宣教のためであった。福音の宣教とは、端的に言えば、神の国は近くなった、悔い改めて福音を信じなさいというメッセージを多くの人々に伝えることである。
十二弟子は後に使徒とも呼ばれるようになった。使徒とは「遣わされた者」のことであって、彼らに最も要求されたのは言うまでもなく神のメッセージをそのまま忠実に伝えることであった。

第三に、彼らは悪霊追放を行うために選ばれた。悪霊(または「汚れた霊」)の追放は、イエスの宣教活動の中でも特に重要な働きの一つであった。
それは悪霊に苦しむ者たちが多くいたからでもあるが、それ以上に悪霊こそが人間の悲惨や不幸の原因であることをイエスがよく知っていたからであった。
イエスは悪霊を追い出して、人々を解放すると同時に、神の支配の中に生きるようにされたのである。
また、悪霊の追放は、神の国の到来のしるしであったことも忘れてはならない。』

*「聖書 スタディ版」より
汚れた霊すなわち悪霊はサタンに仕えていると考えられていた。
イエスの時代、悪霊や悪魔が様々な病気や心の病の原因であると見なされていた*

お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
イエスさまに選ばれ訓練され教育された十二使徒から、
今日のクリスチャンまでつながり、また、これから先のクリスチャンへもつながっていく。
神さまからのメッセージを伝える使命を与えられ、
そしてイエスさまが共に居てくださり、守り、導かれて、その務めができるようにしてくださることを感謝します。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン

マルコ福音書 湖の岸辺の群衆

2006年07月17日 | 新約聖書日記
◆湖の岸辺の群衆
『 3:7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。
ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。
また、ユダヤ、
3:8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。
3:9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。
群衆に押しつぶされないためである。
3:10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。
3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
3:12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。』(日本聖書協会 聖書 新共同訳 マルコによる福音書より)

新約聖書略解(日本基督教団出版局)をまとめて
『イエスの運命の向かう方向が定まったのを機に、ユダヤ人聴衆は、彼の宣教に対する異なった応答によって、幾つかの集団に分かれていく。
それは民の「分化」とも呼びたいものである。

湖畔へ「立ち去」るは、むしろ殺害協議を受けて「退却する」である。
ここで「弟子たちと共に」が明記される。
「おびただしい群衆」は「大きな群れ」で、9節で初めて「群衆」と言い換えられる。
その際、ガリラヤからの大群は「ガリラヤから・・・従った」とされ、それ以外からの大群は「聞いて、・・・来た」として、区別されている。
そこではガリラヤを取り巻く地域が時計の反対まわりに列挙される。
イエスの死後、成立する教会の普遍的な広がりを既に象徴するものと思われる。
群衆の殺到と、悪霊たちのイエスを神の子と公然化して憚らない混乱ぶりは、「十二人」の制定を促している。』

新聖書講解シリーズ2 マルコの福音書(いのちのことば社)をまとめて
『イエスに対する民衆の熱狂的な反応を描きながら、イエスの考えと民衆の期待との微妙なずれを暗示している。
 その暗示の第一は、イエスが湖(ガリラヤ湖)の方へ退かれたことである。
ファリサイ人たちとの対立が決定的なものとなったので、むちゃな争いを避けるためであった。
それと休養のためであったと思われ、特にイエスの場合、論争が繰返されるたびに誤解が大きくなる傾向があったので、いったん退くことが必要だった。
 暗示の第二は、小舟を用意させたことに現れている。イエスは湖に退いたが、群衆の方が追いかけて来た。
イエスの行った奇蹟やファリサイ人相手の議論のうわさが急速に広まったためであった。
彼らがこれ以上奇蹟の本質を誤解しないためであった。
 暗示の第三は、ご自身のことを知らせないように戒められたことである。
これはメシアだと騒ぎ立てることによって、人々のうちに理解よりも誤解が増すのを避けるために戒められたものと思われる。

人間は本質的に罪深い存在であり、何でも自分中心に考えないと気がすまない者である。
群衆は病気を治してもらうためにイエスのもとへ押し寄せてきた。
日本人の多くが神仏を信じるのもご利益を求めてである。
ご利益がないとなるとたちまち信心はやんでしまう。
しかし人間が一番に求めるべきなのは、自分の利益ではないはずだ。
最も大切なのは、神の栄光のために生きることである。
神の国と神の義こそが第一に求められるべきものである。
群衆は病気の治癒を求めておしかけて来たが、真にイエスの救いを求めてはいなかった。
そのため病気という肉体的な問題は解決されても、彼らの根本的な罪の問題はそのまま残ったのである。
わたしたちはどうであろうか。自我を捨ててイエスを求めているだろうか。
神の栄光のために生きているだろうか。
イエスが私たちに求めているのは実はそうしたことなのである。』

お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
ご利益だけを求めて祈る、わたしたちを赦し、
神の国と神の義を求めることができる者としてください。
イエスさまに従うことができる者としてください。
弱く、間違い、失敗ばかりを繰返す者ですが、
どうか御手で導いてくださいますように。
主のために生きることができる者になれますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン

マルコ福音書 手の萎えた人をいやす

2006年07月14日 | 新約聖書日記
◆手の萎えた人をいやす
『 3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎(な)えた人がいた。
3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
3:4 そして人々にこう言われた。
「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。
命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、
その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。』(日本聖書協会 聖書 新共同訳 マルコ福音書より)

新約聖書略解(日本基督教団出版局)をまとめて
『不特定の人々(全員?)が、彼を訴えるために、安息日にその人を癒すか、注目していた。
イエスはその人を真ん中に立たせ、人々に、「安息日に・・・許されているのは」AかBかと、二重に対比させて問う。
安息日にイエスを殺すことを企んでいるからである。彼らは押し黙る。

当時、ファリサイ派は、命の危険があるときには、安息日でも治療を認めていた。
ここのケースでは、それほど緊急でもなく、別の日に癒せば、衝突が回避できる。
しかしイエスにとって、安息日こそ、苦しみを持つ人が解放されるのにふさわしいのだろう。

一人の人が生かされた時、ファリサイ派が出て行って、ヘロデ派と一緒に、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」。
原文は、14・1、15・1という受難物語の文章に基づく文章である。
ここでガリラヤの指導者が、また11・18ではエルサレムの指導者が、明確にイエス殺害を決める決定的瞬間を告げる重要な記述である。』


わたし、最近、考えたことは、
人間は絶対に神さまに勝つことができない、っていうこと。
それは、必ず人間には死ぬ時が来るから。
神さまを信じず自分の力を信じて生きてきた人でも、死を迎える時になって初めて、人は神さまの前に負けを認めるんじゃないかと思う。
と、ぜんぜん関係ない話を書いてしまいましたが。。。

お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
人間のために定められた安息日が、人間を拘束するものになってしまった、
それをイエスさまが、改めて、人間を解放し癒し救われることを、感謝します。
自分の命を捨てて、わたしたちを救うことを使命とされた、
イエスさまの愛を想います。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン