聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

聖書通読表

2006年12月28日 | 新約聖書日記
早いですねえ、もう今年もあと少しで終わりです。
来年、2007年も、礼拝に集うことができますように。
聖書を読み続けることができますようにm(_ _)m

FEBCのホームページの、右下に、来年度の聖書通読表がダウンロードできるようになってますね。
今までもあったのかしらん?
わたし、今回初めてダウンロードしました。
これを使って、聖書を読み進めて行こうかと思っています。

このブログの投稿の方は今までどうり、新約はマルコのつづきを、旧約はエステル記のつづきを、載せていきます。
2007年からも、どうぞよろしくですm(_ _)m



(新しいブログ始めましたm(_ _)m
「介護生活中に節約体質に改善」

エステル記1章 つづき パート3

2006年12月22日 | 旧約聖書日記
つづき

「3分間のグッドニュース 歴史」鎌野善三 を、まとめて。
【この書の中には、神とか信仰とかいう言葉は一度もでてきません。著者は意図的にそれらを隠しているのです。
私たちの生涯には、時として「神さまがおられるのなら、なぜこんな苦しいことがおこるんだ」と泣き叫びたくなるときもあります。
そして苦しみのあまり、「神なんかいない」と考えるようになるかもしれません。
でも、聖書は語ります。神はいないのではない。
ちょうど太陽が曇りや雨の日には見えないように、見えなくなるだけなのです。
いつも太陽はあります。問題なのは太陽を見えなくしている雲なのです。

エステル記1章は、紀元前五世紀に中近東を支配したペルシャ帝国の王宮が背景となっています。
時の王様はアハシュエロス王で、歴史の教科書ではクセルクセスという名で出てきます。
この王は、後にサラミスの海戦でギリシャの都市国家に打ち負かされるのですが、この頃は権勢を極めていたときで、半年以上も大宴会を開いていました。
富も権力もあり余るほどあるこの王には神は必要ありませんでした。
自分が神だったからです。彼には神は見えませんでした。

何でも自分の思い通りにならないと気がすまないのが、このような人の特徴です。酔った勢いで、美しい王妃を客人に見せびらかそうと宴会に来るように命じました。しかしどういう訳か、王妃は来ることを拒みました。王は非常に立腹し、王妃をその地位から退けました。

このような夫婦喧嘩は、今もおこっています。
その原因は、自分の意見こそ正しいと主張する所にあります。相手の事情を理解する努力は、夫婦であってもなかなかむずかしいもの。会社や近所の付き合いでも同じです。
人の意見を聞こうとする謙虚さがいつの時代でも大切なら、なおのこと、神の声を聞こうとする態度はもっと大切でしょう。
雲とはあなたの心の高慢さです。
神の声を聞こうとする謙虚さがあるなら、神はきっとあなたに見えてくるに違いありません。】


お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
先日父の体調が突然崩れ入院となりましたが、一週間ほどで重症になることなく退院ができたことを、神さまに感謝しますm(_ _)m
これからも、父が守られますように。
必ず、父を救ってくださいますように。
また、わたしの体調もお守りくださいますように。マルも守られますように。
こうやって、今、生かされている恵みを、心から感謝いたします。
弱いわたしたちを、これからも導いてくださいますように。
神さまを見失うことなく、イエスさまがいつも共に居てくださることを忘れることがありませんように。
不信仰な者ですが、お赦しくださいますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン