聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

マルコ福音書 中風の人をいやす

2006年05月08日 | 新約聖書日記
◆中風の人をいやす
『 2:1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2:2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。
イエスが御言葉を語っておられると、
2:3 四人の男が中風の人を運んで来た。
2:4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
2:6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
2:7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
2:8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。
「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
2:9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」
そして、中風の人に言われた。
2:11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
2:12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。』(日本聖書協会 聖書 新共同訳 マルコによる福音書より)

新約聖書略解をまとめて
『「四人の男が中風の人を・・・」は誤訳で、
不特定多数の人々が「四人に担がれた」人を運んでくる。病名も特定されておらず、何らかの理由で「(半身が)麻痺した人」である。
本来は、五節前半から十節末あたりにつながった、癒し物語であったと思われるが、中間部が二次的に挿入されて、論争の要素が持ち込まれた。

「あなたの罪は赦される」。これは未来形的に響くが、原文は現在形で、「赦されている」という赦しの宣言である。
病気は、その人の罪(複数)の結果という理不尽な考えが前提されている。
その赦しは神のみに可能である(詩編103・3など)。
しかしイエスは、病人を二重に苦しめる病気と罪の連関から彼を解放する。
この解放が神の支配の特色の一つである。
居合わせた律法学者たちが、彼は「(神を)冒涜している」と判断する。
それは死に値する罪である。(レビ24・10以下など)
しかしイエスは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と語って、全員の前で、命じる言葉によって、癒しを実現する。
「知らせよう」は「(あなた方が)知るために」で、
この奇跡は、彼が神から「権威」、ここではむしろ「全権」を委ねられていることを明らかにする。

喝采の叫びに際して、「神を賛美した」と言われるとき、
人々も、イエスの働きの中に、彼を通して働く神の意志と力を見出している。』

どうも、お祈りが出てきません。
いつもは、聖書を読んで、ここに投稿を書いて、静かに瞑想していると、お祈りの言葉が出てくるんですが、
ちょっと解説で分からないところがあるので、ひっかかっています。
ので、
ちょっと、「病気」と「罪」について、調べますm(_ _)m
次は、聖書思想事典を調べて、まとめて、投稿します。


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