『伝統ねえ』
前の話と関係して、考えたのだけれども。『伝統がどうのこうの』とか言って、変化に反対する人達は、ばかばかしい意見だと思う。大体、イスラム教の間違いは、イスラム教成立当時、正しかった事を、今でも、“絶対的正義”であるとして、人々に従わせている所にあるのではないかと。時代に合わせて、正義も、変化させていかなければ、ならない。それが、正義だと思う。
「永遠不変の真理」なんて、何もない。「永遠不変の真理」に“従う事”に人生を捧げていると、ばかばかしい人生を生きる事になる。“永遠不変の真理”を追い求めている、科学者だって。別に、今、“永遠不変の真理”とされている事に“従って”生きている訳ではない。新たにもたらされるかも知れない、“永遠不変の真理”を、追い求める事に、人生を費やしているだけである。彼らは、その意味において、“永遠不変の真理”に“従う事”に、人生を捧げている、宗教家の人達とは、違う、ということで。
『伝統ではないから』と言って。新しい論理を、主張する人達の意見を、否定するのは、間違いだと思う。その人達は、『伝統だから』という理由で、新幹線に乗らないのだろうかと思う。『伝統だから』という理由で、自分の主張の正しさを、主張するのは、愚かな事だと思う。でも、世界を、“変化させたくない”、自分の正義を“変えたくない”という人がいるのだよね。それは、本当に、困った事だと思う。
『伝統だから』という理由で、自分の正義を主張する人達は、昔の日本人の伝統に従って、米と野菜だけ、食べておけば、良いのにと思う。でも、そういう人は、いない訳で。伝統とか言っても、新しい正しさを否定するのは、愚かだと思う。大体、『伝統だから』という人達は、その伝統が、自分達にとって有利だから言っているだけで。自分達にとって、不利な論理なら、別の事を言うのであろう。そういう意味で、本当に身勝手な、『伝統だから』だなあと思う。そういう人は、この世界から、いなくなってしまえば良いのにと思う。
まあ、すべての“伝統”が、悪いものではないのであろうが。でも、その“伝統”にも、新しい物を、常に入れていかなければ、消えてしまう運命にあると思う。“変化”を、拒否して存続出来るものは、何もないのではないかと思う。