世界の美しさは
解放同盟の過ちについて考えていた。別に、被差別に対する優遇措置が間違っているとかそういう話ではない。問題はそこじゃない。問題は、「なぜ、他の団体、例えば、在日朝鮮人に対する批判のように、被差別の団体に関する過ちについて簡単に批判出来ないのであろうか」ということである。批判している人はいるのだけれども。表立っては言えない。他の団体に関する批判なら、別に普通に書けるのに。なぜ、解放同盟に関する過ちについて書くのに、解放同盟の同意がいるのであろうか。要するに、彼らは、“批判を拒否”している。そこが問題だと思う。
批判をネガティブ(否定的)な事だと考える人達が大勢いる。でも、本当は、外部に対して、その国民による批判がたくさん出ている事。それはその国が豊かだから出来る事である。独裁国家で、共産主義国家で、その国の国民が自由に表だって批判出来るであろうか。そして、それらの国民による自国政府批判が外部の国に知られる事があるであろうか。日本の新聞は日本の政治家について批判するが。それは簡単に批判出来るぐらい、自由主義、そして豊かな国だからである。政府批判をすれば、命取りになったり、一生刑務所に入らざるを得なくなったりする国なんて山ほどある。
神とは、「何があっても、幸福な人」と私は定義したいと思う。「無条件の幸福」があれば、「無条件の愛」なんて、簡単に手に入る。数学的に言えば、「無条件の幸福→無条件の愛」じゃないかと思う。何があっても、幸福であれば、何があっても、愛する事が出来る。結局、「無条件の愛」という言葉だけ言っても、観念的過ぎて、本当はそれよりも、「無条件の幸福」について、議論すべきではないかと思う。
世界の美しさは、不完全さのうちに現れる。完璧な人間がいないこと。それが世界の美しさである。なぜか。完璧な人間がいたら。その人はそれだけで完璧だから。他の人の助けを必要としない。それでは、世界の美しさが損なわれてしまう。この世界に大勢の生命がいる事。それが否定されてしまう。「多くの生命がいるのは、お互い助け合うためである」という事実がないがしろにされてしまう。だから。神とは完璧な存在の事ではないと思う。神の定義とは、もっと他の別のものだと思う。私が思うにその定義は、「何があっても、幸福な人」「何があっても、傷つかない存在」の事だと思う。それなら、普通の人間でも実現可能だと思う。まあ、何らかの努力は必要であろうが。
「悪魔でも愛す」それが本当の神の行いだと思う。何があっても、愛を選ぶ。それが神の行いだと思う。
多分、ほとんどの人が間違った神を信じていると思う。善悪を判断するのが神の仕事だと思っている。そうではないと思う。「あなたが悪魔でも愛します」というのが、本当の意味における、無条件の愛だからして。「あなたが善だったら、愛します」というのは、本当の神の行いではないと思う。
その意味で、日本の政治家は偉いよなと思う。批判されるという状態を受け入れているのだからして。日本の政治家を批判出来なくなること。それが思いつく限りの日本の政治に関する最悪の状態であると思う。
だから、被差別団体の人達の行いは、間違っているのだって。批判を拒否してはいけない。どんどん批判されなさい。それから、反論すれば良い。批判自体を拒否すべきではないと思うのだけれども。アメリカ人的論理ではないなあ、と思う。アメリカでは、議論は山ほどするが、後で、いがみ合いにはならない。それはただの世の中を良くするがための議論に過ぎないから。
やっぱり思うよな。アメリカにおける、黒人優遇措置政策に関する批判を同じように、どうして被差別優遇措置政策について、表立って批判することが出来ないのであろうか、と。別に優遇措置政策の良し悪しはどうでも良いが。隠れた場所でしか、批判出来ないのが問題である。なぜ、こうなるか。結局、この団体はそれなりの隠れた批判を受けるだろうと思う。