キッチン・トランスレーターつれづれ日記

つれづれなるままに日々のよしなしごとを綴ります。本、風景や花や料理、愛犬の写真などをご紹介。

熊野行---天誅組蜂起の山里から谷瀬の吊り橋へ

2017-10-04 10:18:36 | 旅行
                  

                 小雨の降る中、奈良県北部の大和高田から国道168号線で一路南へ向

                 かいました。五條市から十津川村を通り紀伊半島を縦断して太平洋岸の

                 新宮に抜けるこの道は、国道とは言え日本のチベットなどとも呼ばれる

                 山中を行く細く曲がりくねった山道です。こんなところに明治維新に至る

                 大きなうねりの一つが起ったとはとても思えない山深い土地です。

                    

                 天誅組の変というのは、1863年に尊王攘夷の一派が公家の中山忠光

                 を主将に、十津川村の郷士らをかき集めて起こした騒乱ですが、また

                 たく間に幕府軍に討伐され、中山は長州藩へのがれ、郷士たちはいわ

                 ば見殺しになった悲惨な蜂起だったようです。

                 

                 その本陣跡と言っても、山深い村の、さらに入り組んだ丘の上の狭い所で、

                 車のない往時,一体なぜこんな辺鄙な場所でと思わないではいられません。

                 

                 その答えは歴史にあるのかもしれません。五條市の大塔町(旧大塔村)

                 から十津川村にかけては、その昔後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王が

                 かくまわれていた所で、尊王の気風が濃かったのでしょうか。大塔の道の

                 駅には親王の立派な騎馬像があります。親王にせよ、天誅組の郷士たち

                 にせよ、時代のうねりに飲み込まれた敗者たちです。篠突く雨の中、小

                 暗い山中で、しばしメランコリックな気分に陥りました。

                 

                 そこから南へ20キロほど行くと、日本で一番長い吊り橋「谷瀬の吊り橋」

                 があります。これがない頃は、対岸との行き来が本当に大変だったとの

                 こと。この辺は山深く、何と言って産業もなく、その上明治時代に大水害

                 があり、村民の多くが北海道へ開拓移住、新十津川村をつくりました。

                 

                 

                 雨が降っていた上に風が強く、吊り橋が揺れ、その上、下の板が隙間だら

                 けで、はるか下の川が透けて見え、へっぴり腰で途中までひやひやしなが

                 ら歩き引き返しました。8月には橋の上に大太鼓を並べてたたく「揺れ太鼓」

                 という行事があるそうですが、ぞっとしますね。でも、面白い!
コメント
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