価値相対主義の果てに

2021-02-11 18:50:40 | リーダー
価値観が相対的になっている。
A君もB君もCさんも正しいよね。
そんな声ばかりだ。

例えばジェンダー。
同姓婚を認めようという流れがある。
アメリカのリベラルからうねりが起こり、日本もそんな風潮が少なからず存在する。
東京世田谷区(だっけかな?)では民法で同姓婚が認められていないため、パートナーシップ証明書という訳のわからない証明を発行している。
これにより、どの程度、法的な婚姻に近づけるのかは知らないが、リベラリストの自己満足に思えて仕方ない。
ダイバーシティという言葉も聞くようになった。
かっこいいからと意味もわからず使っている人は、絶対いる。

政治家は発言しない。
特に保守的な思想の政治家。
『同姓婚なんて認めない!』なんて簡単に言えない。
石頭の差別主義者と袋叩きにさらされる。
政治家は己の主義主張を隠しつつ、すべての価値観を受け入れなきゃならない損な商売だ。
外に向かって発信できる言葉は、耳ざわりのいい言葉のみ。
自分の本当の主義主張をしようものなら、揚げ足を取られて瞬く間に斬首刑。

数年前に某衆議院議員が雑誌の寄稿でこう書いた。
“同性愛者は非生産的だ”と。
子どもを作ることのみを『生産的』と捉えた発言であり、私は同意はしないが、同性婚に反対という立場は同じだ。
恐らく、保守系の政治家はみんな反対だろう。
でも、それを口にできず沈黙する。
するとリベラリストが調子に乗って、同性婚を法で定義しようと騒ぎ出す。

そういう意味ではアメリカは正常なのだろう。
共和党は堂々と同性愛を否定しているし、中絶に反対している。
キリスト教の教えのとおりに。
保守、リベラル、それぞれが自分の主張をしっかりしている。

結局、同性婚に反対することは旧態依然とした価値観を押し付けるとされ、沈黙が価値相対主義の促進へと昇華されてしまう。
同性婚を論じるには、まず『婚姻とは?』から始めるべきで、ここで言及するつもりはない。
ただ、このような流れによって、価値相対主義が止められなくなっている。

人間社会には絶対的価値が必要だと思う。
何もかもにおいて個人の価値観を尊重されると、無秩序な世界になるだけだ。
今のところ、拠り所が法律しかない状態だ。
法を犯していなければ何をしても問題がないかのような風潮。
そうじゃないだろう。
倫理や道徳が制御すべき部分は確かにあるのに。

人間は生物として、生まれ持った性質がある。
オスとメスが交尾して子孫を残す性質。
その性質と異なる性質を持っている場合、社会的なマイノリティとして生きていくのは当然のことだと思う。

と書いて、私も立派な差別主義者となったということか。
お前は価値相対主義についてどう思う?

いつも心に

2021-02-05 07:56:40 | リーダー
『いつも心にユーモアを』
私の座右の銘である。

リーダーに必要な資質は多い。
ユーモアもあるに越したことはない。

ユーモアは自分を救うと信じている。
例えば、自分がとてつもない困難に直面し極度のプレッシャーを感じているとき。
例えば、何か大きな失敗や失態をやらかして深く傷つき、落ち込んでいるとき。
自分にとって、今、自分を支配しているプレッシャーや落ち込みがすべてであり、これと向き合うことに必死にならなきゃいけない。
忘れたい、でも考えてしまう、落ち込む。
無駄だとわかっていても、気がつけばこれを繰り返していたりする。

しかし、赤の他人がそんな自分を見ればどう思うだろう。
自分が直面する困難は、赤の他人にとってはこれっぽっちも困難ではない。
そんなことに必死に向き合う努力をして気の毒にな、と笑うだろう。
その第三者的な視点を持つことが、いついかなるときも必要だ。

もがき苦しむ自分がいる。
思いっきりもがき苦しめばいい。
それも身の種だ。
しかし、頭の中は冷静に、もがき苦しむ自分をネタにしてユーモアに変えられるくらいじゃなきゃいけない。
“おれ、こんな他人から見たらどうでもいいようなことで悩み苦しんで、馬鹿だな、笑っちゃうよな”
こんな風に客観視できれば、苦しみから解放される。
つまり、ユーモアを思いつくというのは心に余裕があるということだ。
心に余裕があれば、精神的に潰されずに生きていくことができる。
精神的な健康を維持することができる。

今度、大きな困難と向き合ったとき、ちょっと思い出して客観的に自分を見てみるといい。
そして自分を笑いに変えられるネタを探してみるといい。
“あれ?おれって、何でこの程度のことにこんなに苦しんでるのかな?”と思えて、フッと心が軽くなる瞬間があるはずだ。

これができれば、それは大きな強みになってお前を助けるだろう。