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あいとポッポパーティー

あいをさぐりながら、友人に発信。
あいとへいわのあいは、解せなかったけれど注目のテーマ。

中国3日目・ハルピン―731部隊、生きていてよかった

2005-08-23 23:41:47 | レポート
●8月23日(火) ハルビン

午前中、侵華日軍第731部隊遺跡へ。

日本軍の731部隊とは、細菌兵器や凍傷実験など、生きた中国人を連れてきて人体実験をした部隊でした。
日本軍は敗戦間際になると、国際社会に事実が暴露するのを恐れ、細菌兵器を現場に遺棄して逃げ去りました。
この日本軍が残したものが、今なお中国で新たな犠牲を生み続けています。

資料館には、相当な数の写真、資料が並べられていました。
731部隊で3000人以上が殺されましたが、名前がわかったのが300人。
うち、写真が残っていたのが10人足らずでだったそうです。

731部隊に強制連行された、孫伝本さんの話を聞くことができました。
当時、1000人の中国人が工場へ強制連行されました。
731では、日本軍が何をしているのか、見ても聞いてもいけない。もし作業内容を知ることがあれば、日本軍に殺されるのです。
8月15日の1週間前、工場は日本軍によって爆破され、日本軍は資料すべて持って逃げていきました。
731の任務内容を知る中国人は、殺されたり腕を切り落とされるなどしたそうです。

日本軍が遺棄した毒ガス兵器により、生涯働けなくなったり、亡くなった人も大勢います。
被害者は日本政府に補償を求めて裁判を行っていますが、中国側に敗訴の判決が出ました。
孫さんは、被害者に対し賠償すべきだと話しました。
孫さんは強制労働させられる間、賃金はいっさいもらっていません。孫さん自身も告訴したいが、当時私が731で働いていたことを証明する人間がいないため、できないと言います。

孫さんが、最後に自ら確認するように、じっくりと話した言葉が胸に残りました。

だが、私は生き残ることができて、本当によかったと思っている。


写真は、孫さん(旗と旗の間)を囲むピースツアーの面々。

中国2日目・瀋陽、撫順―もっとも会いたかった人

2005-08-22 23:24:21 | レポート
●8月22日(月) 瀋陽~撫順~ハルビン

1932年日本軍による中国人大量虐殺の現場、平頂山惨案遺跡記念館へ行きました。

緊張する。
話には聞いてきました。
日本軍が住民をだまして一ヵ所に集め、大殺りくを行ったという。
発掘された遺骨が、当時のままの状態で保存されているという。
どんな顔をして対面できるのだろう。
不安でした。

記念館では、職員の女性が当時の町の様子の模型を前に、事件の概要解説をしてくれました。
遺骨とともに、お金、目覚まし時計、月餅、リンゴなども一緒に発掘されたといいます。住民が、死などまったく想像していなかったことが伺えます。

平頂山事件の数少ない生存者である、楊さんの話を聞きました。
今回の旅で、私がもっとも会いたかった方の一人です。
日本でビデオ「未だ癒えぬ傷」を見てから、楊さんのことが忘れられませんでした。
部屋に入って楊さんを見たとき、すでに胸ははちきれそうでした。
すでに涙があふれそうでした。

事件から、すでに73年も経ちました。当時10歳だった楊さんは、現在83歳。
しかし、傷は癒えない。

楊さんは、訴訟のために5回も日本へ行きました。
そのとき、たくさんの若い人が楊さんを囲み、涙を流しながら話を聞いたそうです。
日本政府は、この事実を認めようとしません。
しかしそれについて、日本の人たちが「不当な裁判だ」と言ってくれることには、とても感謝をしている、と話してくれました。

私は、最後に発言の機会をもらいました。
ビデオの楊さんと、目の前の楊さんとが重なり、涙があふれて止まりませんでした。
せっかく発言時間をいただき、しかも楊さんというまさに当事者を目の前にして、私が泣く筋合いなどありません。
でも楊さんの悲しみと悔しさ、そして日本政府の横暴さ、そして自分のふがいなさが入り混じり、涙ばかりが流れ出ました。
なんとか、自分の思いを言葉にし、楊さんに聞いてもらいました。
もらい泣きか、思い出したのか、楊さんもときどき涙をぬぐっていました。
日本から押しかけた私たちに、つらい体験を話してくれた楊さんに、心から感謝します。

詳しい証言の内容は、ぜひ平和新聞で紹介させていただきたいと思っています。


次に、撫順戦犯管理所へ向かいました。
日本軍の元「戦犯」たちが収容された施設です。
中国政府の「重い刑罰を与えるのではなく、人間的な教育を施すことが、将来の中日の友好関係にも有益だ」との方針から、「戦犯」たちは人間として回復のチャンスを与えられました。
元戦犯たちが日本へ帰国してから結成した、「中国帰還者連絡会」という団体がありますが、管理所の資料館には、この中帰連の活動も詳しく紹介されていました。

その後、9・18事変博物館へ行きました。
9・18事変とは、日本では柳条湖事件といいます。
博物館は、中国人の怒り、くやしさが満ち満ちています。
石原東京都知事や日本政治の動きを警戒し、中日の友好関係への障害となると警告していました。

中国1日目・瀋陽―自分のルーツを訪ねる旅

2005-08-21 23:10:12 | レポート
●8月21日(日) 成田~瀋陽

ニイハオ。
午前10時過ぎに成田を飛び立ち、お昼に中国は瀋陽へ到着しました。
今日から、7泊8日の中国ピースツアーが始まります。

今日はほぼ観光でした。
瀋陽市内にある、瀋陽故宮博物院と張氏師府(張学良旧居陳列館)。
それぞれ歴史を抱えつつ、建物自体はとても豪華でした。精巧なつくりが、見ていておもしろかったです。

晩餐は、瀋陽で有名な老辺餃子へ。
門外不出の技、そのお味は…うまかったです。
いろんな種類があり、ついパクパク食べてしまいました。紹興酒には梅干と氷砂糖を入れ、これが餃子とよく合いました。ハオチー!


食事をしながら、今回のツアー参加者の自己紹介をしました。
事務局2人を足すと、総勢30人。
平均年齢高し。

自己紹介というのは、一人ひとり思いのたけを話しているとなかなか終わりませんが、まさに今夜はそれでした。
しかし、思いの深さはうなずけます。
まさに平和委員会主催の中国ツアーらしい、そんな参加者が勢ぞろいしました。

多かったのは、自分のルーツを訪ねる旅であるということ。
戦前、中国で生まれ育ち、その後日本へ戻ってきたが、なかなか中国へ来ることはできなかった。しかしなぜ自分はそこで生まれたのか、自分のルーツを探ることが歴史を明らかにすることにもつながっています。
他にも親が、兄弟が、中国で生まれた、中国で戦争をした、…。
そんな人が非常に多かった。

また、20代が私の他に2人参加しました。
1人は私の学生時代の仲間で、彼女が友人を連れて参加してくれました。
高校で社会を教える教員として、真実は何なのか、自分の目で、耳で確かめるよい旅になると思います。

実は父も参加しています。
なかなか親孝行できていなかったのでよい機会だと思い、お誘いをしました。
父の妹のハズバンドが戦前にハルピン辺りにいたことがあり、その後シベリアに抑留され凍傷によって手の指がないということも、今回初めて聞きました。
そのハズバンドには、お土産としてハルピンの写真を頼まれたそうです。さらにそれを私が依頼されました。どちらにしろ写真はパシャパシャ撮るので、ぜひプリントして送ってあげようと思いました。

明日は撫順へ行きます。
今から緊張しています。

60年目のヒロシマ・ナガサキへ

2005-08-15 02:51:54 | レポート
行ってきました。
8月4日~6日までヒロシマへ、7日~9日までナガサキへ。
主な目的は、原水爆禁止世界大会へ参加するためです。

外国人が多かった!
フランスからは160人が参加しました。
「フランス平和運動」という団体があり、160人全てがそこのメンバーではありませんが彼らのコーディネートの下に参加しました。

フランスは核保有国。
政府の方針は「核兵器は持つが使わない。持つことで多国間の力の均衡を図る効果がある」というもの。いわゆる「核抑止論」です。
フランスの青年と交流する場面がしばしばあったのですが、多くのフランス国民が「核抑止論」を信じていると言います。今回参加した多くの青年は、当然核兵器の完全な廃絶を目指していて、国内で核抑止論の虚構を明らかにして核廃絶世論を広げるために頑張っているそうです。

そして「フランス平和運動」は、戦争放棄を定める日本国憲法9条の理念をフランスはじめ世界に広げることをすすめようとしているそうです。
日本青年とフランス青年が長時間、しかも大人数で対話する分科会があったのですが、そこではしばしば「9条」の話が出ました。
日本とフランスの間で、9条というテーマでかみ合うことに感動しました。
9条を日本人として誇りに思う…なんてことはまったく思いませんが、9条を軸に平和運動をしてきた主に日本の多くの先輩方の功績かもしれません。
「9条」をスローガンとしてでなく、その理念を具体的に言葉にし、可能性を提案していきたいと、改めて思いました。


そして核兵器廃絶という、大きな目標。
今年は日本の被爆から60年。
被爆者にとって被爆70年はないと言われています。
とくに若い人に、被爆者の話(被爆体験の証言だけでなく彼らの生き方)を聞いてもらおうと、場を準備しました。
60年目にして初めて被爆体験を話す、という方のその気持ちとはいったいどんなものか、想像を絶します。
「聞いてくれてありがとう」という言葉が、胸に重く残りました。
こちらとしては「話してくださってありがとう」に尽きる、としか思わなかったけれど、被爆者の感謝の気持ちもしっかりと受け止めたいと思いました。

そしてナガサキ原爆被爆者で、ずっと核兵器廃絶の運動を引っ張ってきた山口仙二さんという方がいます。
この方の話を、今回は2回聞く機会を得ました。
この人の話は、胸を打つとともに、実に多くを学ばされます。小さな、腰の曲がったその姿から放たれるエネルギーをひしひしと感じました。
今回、山口さんの顔をじっと見ました。
顔、表情がなんとも言えずすさまじいというか、感動せずにはいられないというか。
私のつたない言葉集では表現しきれませんが、いろんな感情と力を感じました。


作成中の平和新聞(8月25日号)は、世界大会特集号(すでに15日付けでも大会について報じていますが)。
初のカラーです。どうなることか…。

沖縄の旅・余談―五十九の春(「十九の春」の替え歌)

2005-06-04 00:49:21 | レポート
宮古島で聞いた、「五十九の春」。
沖縄民謡の「十九の春」の替え歌。私も大好きなこの曲が、宮古島で憲法バージョンに。
歌詞をずらりと紹介します。よければぜひ歌ってみてください。
(写真は宮古島の上里さん。5月19日に訪れたとき、みんなで大合唱しました)

一 私がこの世に 生まれたのは
  五十九年前の 春でした
  いまさら改憲と いうならば
  もとの生まれを 見てごらん

二 私の生まれは 敗戦後の
  不戦の誓いと 民主主義
  枯れ木に花が 咲くように
  新たな日本の 門出だよ

三 憲法改悪 したならば
  軍国時代に 逆もどり
  自由と権利が つぶされる
  そんな時代は ごめんだよ

四 一銭五厘の 赤紙で
  外地戦地へ 駆りだされ
  戦死するよな 若者を
  再びつくる せつなさよ

五 小泉さん、小泉さんと 呼んだとて
  小泉さんにゃ ブッシュがついている
  いくら小泉さんと 呼んだとて
  所詮ブッシュの 犬のポチ

六 野党住まいの 民主党
  野党の名前を 打ち捨てて
  政府与党に すり寄って
  保守よ保守よと 鳴いている

七 日本の平和を 築くため
  改憲勢力 打ち負かし
  民主勢力 団結し
  私をまもって くださいね

沖縄の旅④(完)―自衛隊誘致の白紙撤回、それが民意

2005-06-03 02:37:47 | レポート
あ・さあ、元気を出してレポート更新。

●5月17日(火)下地島、伊良部島

朝、ホテルを出て港へ。船で下地島へ向かいました。
前にも書きましたが、下地島は「しもじじま」と読みます。にごります。住民に聞いたので確かな情報です。

下地島には、巨大滑走路を持つ下地島空港があります。70年代初頭の沖縄本土復帰直前、この空港建設を誘致する際に、「軍事利用はさせない」と言った確約書を当時の琉球政府との間で交わしていました。この約束があったために、その後軍事利用の話は何度か出たものの、下地島空港は民間空港訓練を中心にした民間利用が原則になっていました。
それが今年3月16日、突如として伊良部町議会(下地島と伊良部島を抱える)が空港への自衛隊誘致決議を可決。これに猛反発した地元住民は24日に住民説明会を開かせ、最終的には誘致決議の白紙撤回を表明させました。
たった8日間の間に、まさに住民パワーによって議会を動かしたのでした。

アツイ下地島へ。

興奮を胸に秘め、このときの中心になった地元住民の近角さんと、下地島空港施設労組の福島さんにお話を聞きました。
近角さんからは、説明会開催を決定してからわずか3時間30分で住民過半数を集め切ったこと、その間、地元のテレビ放送局は説明会開催のテロップを流し続けたこと、住民説明会での細かなやり取りを教えていただきました。
説明会での住民からの声…
「(議員に対し)あなたを田畑を守ると言ったから一票を入れたのに、軍事利用とはどういうことだ」
「経済効果をもたらすと言っても、軍事化につながることはありがた迷惑だ」
「米軍が来ないと言う根拠はあるのか」
これらの問いに、誘致賛成派は答えられませんでした。中学生も参加したそうですが、「議員がいかにいい加減なことをしているか、子どもも見ているよ」と言う親もいました。
推進派の「明日の議会で民意を尊重して議論をする」との説明に、住民の「民意の尊重とは何か!?」と追求。その時点で、本当の「民意」は明らかでした。こうしたやり取りで、最終的に白紙撤回になったのです。

労組委員長の福島さんは、空港の軍事利用に反対する運動を初めは組合のみでやっていたところ、住民から「ここがいつか基地になるのではとずっと心配していた。頑張ってほしい」と励ましの言葉を、とくに70代、80代の方から寄せられるようになり、住民や諸団体に呼びかけて大きな運動を作るようにしました。
下地に自衛隊が来たら、米軍が来ないことはありえない。それが地位協定であり、安保である。
福島さんはこのことを住民にも伝える必要があると思っていたのですが、住民はいちいち説明しなくても自衛隊と米軍が一体のものであるということを実感としてわかっていました。「住民は無関心ではなく、アンテナを立ててずっと見ていた」

その後、伊良部町役場へ行き町長と懇談することができました。
初めは誘致を推進していた町長。町民の声にどのように反応したのか…。
町長の話からは、まさに過疎化が進む田舎の町長のジレンマが伝わってきました。空港の利用が減り、なんとかして減った分の収入だけでも取り戻したいと自衛隊誘致を決意。今回の誘致合戦は議会ですすめられたものですが、実は以前に町長が誘致を持ち出したこともあったのです。そのときは国や県から認められず、結局議会で「もう誘致は言わない」と発言しました。
そんな町長も、米軍が来ることには断固反対です。去年8月の沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落の事件も衝撃を与えており、「米軍がいれば事故、事件が多い。米軍ばかりが優遇され住民が大事にされないのはおかしい」ときっぱり話していました。

かつて自衛隊誘致を推進した町長でさえ、米軍は絶対に来てくれるなという認識。米軍がいることで住民の安全がいかに脅かされるのかを、肌身で知っているのだなと感じました。
米軍の恐怖は、おそらく沖縄だけでなく本土の米軍基地付近の住民も感じていることだとは思います。しかし地上戦における軍隊そのものの恐怖を知っている沖縄の、特にオジー・オバーの言葉は、より説得力をもちます。

主なツアー日程は終わり。
最後に、やはり決してガマンはできない海。時間がなくて5分くらいしか浜に出られなかったけれど、浸かるしかない。砂はサラサラ。

バスの運転手さん(ガイド兼)もかなり最高でした。

そして今回会ってくださった沖縄の方々みんなが本当に素晴らしい方々でした。驚くほどに。


本日(2日)の毎日新聞朝刊には、日米政府間での在日米軍再編協議で、辺野古の基地建設の白紙撤回が報道されています。普天間基地機能を嘉手納基地と岩国基地へ移転させる方針を固めたということです。
確実なものになるまでは辺野古の皆さんも座り込みを続けるのでしょうが、いずれにしても辺野古の「愚直な」たたかいが政府を動かしています。しかし県内移設では住民の了解は得られません。もちろん移転自体が根本的な解決を生みません。軍事基地は、軍隊が人間を効率よく殺りくする訓練を行う場。人殺しはいけないという単純で明快な信念に忠実であれば、軍隊や基地は許される存在ではありません。
 →毎日記事 

沖縄の旅③―日本全土が基地

2005-06-01 00:55:42 | レポート
●5月16日(月)金武町、那覇市、宮古島

一同バスに乗り、金武町のキャンプハンセンへ。
巨大通信施設の新・象のオリや、都市型訓練施設を見ました。

都市型訓練施設の建設には、地元住民がこぞって反対をしています。まさに実戦のための施設で、おそらくイラクの町をイメージして作られた建物の中で、米兵は銃を撃ち、人殺しの上達を図っています。
イラク都市の模擬施設は、私の母校の近く、山梨県山中湖にある自衛隊の北富士演習場にも去年作られました。サマワの町が山中湖に現れたのです。
日本全土が基地、つまり米軍によるイラク攻撃を支えているのだと思うと、情けないのと申し訳ないのとでいっぱいになります。

お昼は、嘉手納基地を一望する「安保が見える丘」の前にあるお店で、タコライス。本当は沖縄そばが食べたかったけど、その店には置いていませんでした。今回は結局沖縄そばが食べられず、実に残念でした。

その後、かつて戦時下において沖縄から本土へ疎開する途中の、小中学生を大勢乗せた船が攻撃によって沈没した対馬丸事件を記録する「対馬丸記念館」を訪れました。

この間、ずっとバスに乗って案内をしてくださった沖縄県平和委員会の与儀さんのガイドは、本当に素晴らしかったです。現代の基地のこと、かつての戦争のこと、沖縄名物など、とても多彩にご自身のことばでわかりやすく説明をしてくださいました。
平和委員会には素晴らしい方が大勢いるなあと、改めて実感。沖縄ピースツアーを考えている方には、ぜひ与儀さんをご紹介したいと思います。


夕方、宮古島へ飛行機で向かいました。
明日(17日)に、自衛隊誘致決議を住民パワーで撤回させた伊良部町を訪ねるためです。
宮古島ただ一人の、平和委員会会員の方をはじめ多くの方が迎えてくださり、一緒に食事をしました。
本当におもしろくて素晴らしい方ばかりでした。すごく楽しかった!
宮古民謡や、沖縄民謡「十九の春」を憲法バージョンに替えた歌も披露してくださいました。この替え歌はかなりよかったです。
そしてご飯もおいしかった。グルクンのから揚げや、アーサー(沖縄の岩のり)天ぷらなどなど、うまかったばい。幸せでした。

写真は、宮古島での宴。染み入る歌声。

沖縄の旅②―「すでに海は壊れています」

2005-06-01 00:18:00 | レポート
沖縄の旅からかなり時間が経ってしまいました。なんとなくてんてこ舞いな日が続き、全然更新できませんでした。
さて続き続きー。もうかなり簡略化し、詳しくは平和新聞5月20日号で、ということにします。

●5月15日(日)夜~16日(月)辺野古

普天間基地をいっちょ囲み、県民集会に参加した後、名護からの参加者が乗るバスに便乗して名護市辺野古に向かいました。
日米政府は、この美しい辺野古の海上に巨大基地を建設しようとしています。97年、名護市で行われた市民投票で、圧倒的多数が基地建設反対の意を表明したにもかかわらず。いま、建設のための「ボーリング調査」に、名護の住民はじめ全国の人々が、これを止めるため1年以上にわたってここで座り込みを続けています。毎日。一日も欠かさず。
この阻止行動は、徹底した「非暴力」が貫かれています。工事を強行しようとする防衛施設局や雇われた業者が、座り込みを続ける住民を無理やりはがそうとする場面もありますが、そこでこちらがカッとなっては向こうの思うツボなのです。名護市平和委員会会長の大西さん言うところの、「愚直」なたたかいが続けられているのです。
座り込みは、地上のテントはじめ海上にパイプで作られたやぐらの上でも行われています。4月末からは24時間体制です。

たった1日ですが、私もこの目と体で見届けようと、辺野古に泊まりました。
テントにざこ寝をしたのですが、思った以上にきつい。寝床は硬いし、狭いし、風は強いし、お風呂に入っていないからべたべたしたままだし…。
でも、これを続けている人がそこにはいるのです。

この日は夕方に波が荒かったため船を出せず、やぐらに人が寝ることはありませんでした。その代わり、深夜にいつ施設局が来るかわからないので、夜12時から交代で見張りを立てました。私も12時から1時間、海を臨みました。
幸いにしてこの日は施設局が来ることはありませんでした。海を見ながら、同じように座り込みに来た人や、辺野古のたたかいのリーダーの一人、具志堅さんと話をしました。
辺野古での座り込みは、子どもたちの未来に基地を残してはならない、と切望するオジー・オバーが先頭に立ってきました。こうした姿を見て、全国からも多くの若い人がここへ集い、海を守りながらオジー・オバーから多くのことを学んでいくそうです。

1時間の見張りの後、那覇市から来たという、私より少し年下のある女性を1時間も話をしました。
基地のこと、平和のことにまったく興味がなかったという彼女。仕事をやめ、ふと何をすべきか考えたとき、辺野古が頭をよぎったそうです。本土ではあまり報道されませんが、沖縄ではそれなりに報道される辺野古のたたかいは、彼女も聞いていました。
今は新しい仕事に就いて毎日働いていますが、土日だけは辺野古に来て泊まりこみ、月曜の早朝に帰ってシャワーを浴びて出勤するそうです。「いるだけだけど」と言いますが、あの辺野古で1人でも多くの人が座ることがどれほどの大きな力になるか、彼女も自覚してのことだと思います。
とてもいい出会いができ、感動しました。

朝6時に起床し、やぐらへと向かいました。
防衛施設局の船が出航する、キャンプシュワブにもっとも近いやぐらです。
8時半頃、施設局の船が続々とやってきました。こちら側の船も数台います。
それから2時間近く、海上でのにらみ合いが続きました。施設局が拡声器で「ここは立ち入り禁止!」「工事の邪魔です。出ていきなさい」と繰り返す中、こちらはただただじっと座り込む。トイレにも行けません。

びっくりした出来事が一つ。
こちら側の一人が「海を壊すものは出て行きなさい!」と言ったら、「すでに海は壊れています」と施設局。基地建設のための工事の準備の段階で、すでに辺野古のサンゴ礁は破壊されています。このことを施設局が開き直って認めるのです。
だから?
自分たちで壊しておいて、もう破壊しちゃったから基地を作ったって同じなんだよ、と?
そして今度は人間を、命を壊すための基地を作って、そこからイラクに米軍を送り出して、「すでに人間は死んでいます」とでも言うのかな?

11時前に施設局は去りました。私は次の予定があったので、本当に申し訳ない気持ちを抱えながら、船で浜に送ってもらいました。途中、他のやぐらも遠くに見えましたが、施設局の船がたくさん囲んでいました。

辺野古から帰ってだいぶ経ちましたが、先日、沖縄県議会の与党会派が「辺野古見直し」の方針を決定しました。これまで小泉首相などが辺野古見直し的な発言をしてきましたが、現実には建設中止にはならなかったのです。県の与党会派が反対を示したことが、これからどう動くか。政府の発言に翻弄されてきた辺野古住民なだけに、確固たる「勝利」がわかるまで予断を許しません。

沖縄の旅①-普天間基地をゆとり持って囲む

2005-05-22 19:35:31 | レポート
10月に開催する「ピースエッグ2005inおかやま」(10月8-10日)の準備のために、ただいま岡山に来ております。
岡山から、沖縄の旅レポート開始ー。

●5月15日(日)普天間。

沖縄の旅は2泊3日、普天間基地、名護市辺野古、下地島などをめぐります。本土からはツアーを組んでの参加です。
羽田空港に着いたら、学生時代を過ごした山梨からも、知り合いの若い病院職員、Sさんが来ていました。ますます旅が楽しいものになるぞ、との期待が膨らみます。

昼ごろ、那覇へ到着。
あちい。
と言うよりも、蒸す。
沖縄は現在梅雨です。

飛行機を降り、携帯電話に電源を入れて早々、都留文科大学時代からの仲間で沖縄在住のUくんから電話がありました。絶妙のタイミングで驚きましたが、とてもうれしい。
彼もこれから行われる普天間基地行動に参加したかったのだが、仕事が入って行けなくなった、でも父が参加するよ、とのこと。エールをもらいました。

バスに乗り、宜野湾市にある普天間基地へ向かいました。
この沖縄の旅の大きな目的の一つ、「普天間基地撤去、基地の県内移設に反対する県民大行動」に参加します。

普天間基地は宜野湾市のど真ん中に居座る米軍基地ですが、96年4月に日米両政府の間で、5~7年以内の返還が合意されています。しかし、返還のめどはまったく立っていません。
返還の条件に、代替施設として名護市辺野古沖への海上基地建設が挙げられましたが、辺野古ではこれに反対し、毎日座り込みで基地建設のための工事を止めています。
日米政府は、普天間基地の移転のめどを立てられないことを理由にずるずると返還を先送りにしていますが、住民は一刻も早く基地をなくしてほしいと切に願っています。

普天間基地の早期返還を求める包囲行動は、95年に始まり今回が4回目です。
去年5月の包囲行動では正面から掲げることのなかった「基地の辺野古移設反対」は、一向に返還が進展しない中、去年8月に起きた沖縄国際大学(宜野湾市)への米軍ヘリ墜落事故、そして辺野古でのたたかいを受け、今回は共通スローガンとして打ち出しました。
そうして迎えた今回の包囲行動は、過去最多の23,850人で実現しました。

普天間基地を人の手で一周させるためには17,000人、そして目標が20,000人でしたから、本当に大きな数です。
これだけの数がいれば、腕をゆるめながら基地をゆうに囲めるのです。

目立ったのは親子の姿です。宜野湾市内から、家族で歩いて来たという人も多くいました。いわゆる団体に所属していないような、普通の一市民も大勢いました。
地元のオバーが1人でトコトコとやってきて、さりげなくまぎれこんで一緒に手をつなぐ姿は、小さいんだけど大きい、そんはふうに見えました。
美しい。


場所を海浜公園に移し、県民大会へ。
7,500人が参加し、会場で呼びかけたカンパには130万円余りが寄せられました。すごい額!

宜野湾市の伊波洋一市長をはじめ、国会議員や労組、市民団体の代表などが次々と発言しました。

伊波市長は、「普天間基地返還アクションプログラム」というものを策定し、返還と跡地利用について計画を練っています。住民の代表として、返還が命にかかわる大事業として切実な思いを話しました。

民主党の岡田代表も普天間返還に協力する立場なのですが、彼が発言をすると会場から「憲法はどうするんだ!」といったヤジが飛びました。改憲を高らかにうたい、自国の軍隊を持つべきだと主張する彼らは、軍隊がもたらすもの、基地を抱える住民の苦しみが本当にわかっているのか疑問です。

辺野古からも数人が発言しました。
もうどこにも基地はいらない、ということを、お互いに確認しあう、よい大会でした。


大会後、私はツアーから離れて1人辺野古へ。
名護市からのマイクロバスに乗せてもらい、ゆらゆらと辺野古へと向かいました。
(つづく)