*編集者より:以下は、批評家・小浜逸郎氏の、ご自身のブログ「ことばの闘い」に掲載された論考を転載したものです。本文中で登場する、氏が通訳と思った「若い男性」は、たぶん芥川賞作家の平野啓一郎氏ではないかと思われます(http://lineblog.me/hiranokeiichiro/archives/39947993.html平野啓一郎オフィシャルブログ)。詩を朗読したアルゲリッチのお子さんは、次女のアニー・デュトワです。ちなみに、母の素顔を追ったドキュメンタリー「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」の監督は、三女のステファニー・アルゲリッチです。
アルゲリッチ母子の奇妙な結合(小浜逸郎)
2015年09月07日 23時28分26秒 | 政治
*画像にポインターを当ててクリックしていただければ、拡大されます。
皆さんは、以下のような問題についてどう考えますか。
数日前、深夜たまたまつけたEテレで、8月17日に行われたサントリーホールのコンサートの模様を放映していました。演奏者はいまや巨匠とも呼ぶべき世界的ピアニスト、マルタ・アルゲリッチと広島交響楽団。曲は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲1番。
もう第三楽章も終盤に近い部分だったし、個人的にはアルゲリッチをあまりいいとは思っていないのですが、でもあの軽快で楽しい調子に思わず引き込まれ、貫録を増した彼女の演奏をほんの少し楽しむことができました。曲が終わって会場はやんやの喝采です。
画面が変わり、会場からではなく、局からの説明が入りました。それはアルゲリッチの次の曲とか彼女の演奏実績とかについての説明ではなく、彼女のお嬢さんについての詳しい紹介でした。お嬢さんは、平和活動(NPOでしょうか)をやっているそうです。その彼女がアウシュヴィッツとヒロシマについての詩を作ったので、それを会場で朗読するというのです。
再び画面が変わり、若い男性に続いて可憐な雰囲気のお嬢さんがステージに出てきました。お嬢さんが詩を朗読し始めました。若い男性は通訳でしょうか。聴衆は水を打ったように聞いています。とっさに私はいいようもない不快感を感じ、スイッチを切ってしまいました。もちろん意味を聞きとる以前のことです。
これはひねくれ者の個人的な性分にすぎないかもしれませんが、私は、文化と中途半端な政治的メッセージとを混合したこの種の「あいまいな」イベントが大嫌いです。
たとえばチャリティーコンサートとして売り上げを被災者や難民など、困っている人に寄付するというなら一向にかまいません。しかしこの催しはそれとは違います。一流のホールに世界的ピアニストを招いて一流の演奏を聴かせるという触れ込みで観客を集め、集まったその現場を巧みに利用して「平和活動家」のメッセージを発信する――この企画の中にはずいぶん不純でいいかげんで安っぽい思想がありはしないでしょうか。
アルゲリッチといえば、S席だったらまず二万円は下らないでしょう。それだけの入場料を払って会場に来たお客さんは、95%までは彼女の演奏が聞きたくて集まってきたので、「平和活動」のメッセージなどほんの刺身のつま以下のものとしてしか感じないはずです。
もっとも後で知ったことですが、このコンサートは、初めから「平和の夕べ」と題されていたそうです。演奏会の時期、広島交響楽団との組み合わせという点などと考え合わせると、お客さんの方もそのあたりはもともと織り込み済みではあったのでしょう。ちなみに広島交響楽団は、年一回、広島のフェニックスホールで「平和の夕べ」コンサートを催しているそうですが、楽団の設立趣旨や通常の演奏活動自体は、広島の原爆投下とは何の関係もありません。
いわばこのイベントは、演奏者も観客も善男善女であることを当て込んで仕組まれたもので、ほとんど誰も、アルゲリッチの演奏とそのお嬢さんの詩の朗読行為との間にあるギャップに対して違和感など抱かないのでしょう。
しかし繰り返しますが、私は「善男」ではないので、ここにいくつものおかしな連想ゲームによって成り立っている歪んだ意図を読んでしまいます。私のこの批判的な読みは、けっしてアルゲリッチやそのお嬢さんや、広島交響楽団に対して向けられたものではなく、もっぱらこういう企画を立案して平然としている人、またそれを公共放送の電波を使って全国に平然と流すNHKのプロデューサーに対して向けられたものです。
まず、この企画がどういう順序で進んだのか知りませんが、企画者は、アルゲリッチと親子関係にある人が「平和活動家」であるという「縁」に飛びついたことでしょう。でもこの縁なるもの、じつはクラシックの巨匠の芸術的価値とは何の関係もありません。
それはちょうど、フルトヴェングラーやカラヤンがたまたまナチス・ドイツの体制下で、一見その体制に「協力」しているかのような演奏活動を行なったからといって、彼らを非難するには当たらないのと表裏の関係にあります。音楽に政治的な思想性を求めるのは原理的に無理な話で、アルゲリッチおばさんが別にすぐれた平和思想の持ち主であるわけではありません。企画者は、芸術家の名声と、その子どもの「平和活動」とを安易に結びつけて利用しているのです。
、次に、企画者は、今年は戦後七十年という大きな節目だから、この際、毎年行われている広島交響楽団の「平和の夕べ」に世界的大物を結びつけて、人の集まる首都圏で大々的に平和思想のアッピールをやろうじゃないかと考えたに違いありません。安っぽい興行師精神の見本です。後述しますが、そもそもこの「平和思想」なるものが、現実的な思考回路や歴史への視線を欠落させた陳腐で浅薄きわまるものです。
もっと大事なことを言います。
このお嬢さんの詩は「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ」とを同時に歌い込んだものだということです。その出来栄えがどの程度のものか、聞くのをやめてしまった私に評価する資格はありません。
しかしごく一般的に言って、アウシュヴィッツとは、ナチス・ドイツが初めから抱いていたユダヤ人に対する激しい憎悪・蔑視感情を、一民族絶滅の実践にまで高めていった、その思想を象徴するものです。しかもこの憎悪・蔑視感情は、非ユダヤ系のヨーロッパ人の間にはるか昔から広く(いまもなお)潜在していたものです。それは、第二次大戦におけるドイツの軍事行動とは直接のかかわりをもたないのです(第三帝国完成というプログラムの範囲内には収まるかもしれませんが)。
これに対して、「ヒロシマの原爆投下」は、明白にアメリカの対日軍事行動であって、両者をその非人道性や悲惨さという共通点だけをよりどころに同一視するような情緒的な把握は避けなくてはなりません。この区別をきちんとしないと、思想として残るのは、単なる戦争や殺戮一般という抽象的なものへの忌避を根拠とした抽象的な平和主義・ヒューマニズムだけになってしまいます。
こうした同一視は単純でわかりやすいので、物事を深く考えようとしない多くの人に広まるわけですが、その結果、たとえば「ドイツはあの戦争を反省したが日本は反省していない」といった得手勝手な言い分や、最近の反安保法制の運動に見られる「安保法制は戦争への道」などというバカげた思考停止の感情的な心理基盤が作られるのです。
誤解のないように断っておきますが、アウシュヴィッツとヒロシマを区別せよといっても、アメリカの非人道的行為がナチス・ドイツのそれに比べて軽いとか、かつての連合国の理念のほうが枢軸国のそれに比べればまだましだとか言いたいのではありません。むしろ逆です。個々の歴史事象の質的な相違をしっかり見極めるところから、何に対してどう憤るべきかという正しい指針が生まれてくるのです。情緒的な同一視は、これこれの事態を引き起こしたのは誰かという具体的な問いを封殺してしまいます。
ナチス・ドイツがしたことはもちろんとんでもないことですが、連合国が、これだけを悪魔に仕立て上げることによって、自分たちのしたことを巧妙に正当化し、免罪してきたことも忘れてはなりません。このトリックは、旧ソビエト連邦のユダヤ人虐殺やシベリア抑留者に対する過酷な扱いから最近の中共政府の驚くべき歴史捏造にいたるまで、その隠蔽の構造を連綿と保存し続けているのです。
事実、日本で毎年行われるヒロシマ・ナガサキの追悼・祈念儀式には、「この恐るべき非人道的な行為の直接の下手人は誰か、われわれは誰に対して憤りを向けることが正当なのか」という問いが生まれてくる余地のまったくない欺瞞に満ちたものです。もちろん下手人はアメリカであって、そのことがうやむやにされてきたのは、アメリカが中心となって作り上げた東京裁判史観と、日本の左派が作り上げた自虐史観との合作によるものです。
いろいろと小うるさいことを申しましたが、要するに私が言いたいのは、アウシュヴィッツとヒロシマとをその悲惨さによって同一視するような粗雑なものの見方による限り、何億回平和を祈念してみても、戦争や虐殺はけっしてこの世からなくならないということです。両者を一緒くたに歌い込んだ詩を聞かされたコンサート会場の聴衆のほとんどは、おそらく善意に満ちた素朴な共感を示して拍手の一つもしたのでしょうが、それがいったい何だというのでしょうか。私はむしろ、「今日はアルゲリッチのピアノを聴きに来たので、余計なことはやらないでくれ」と感じた聴衆が少しでも会場にいたことを信じたい。
この企画の担当者およびこれを何の疑いもなく放映したNHKの担当者は、お願いですから、この種の文化と政治をあいまいに混同させる企画が、理性的にものを考えようとする頭脳の働きを麻痺させる作用しかもたらさないということに気づいてほしいと思います。
注記:この稿を自分のブログにアップした後、一読者の方から、「広島の詩は原民喜氏の『鎮魂歌』。ユダヤの詩はチャールズ・レズニーコフ氏の作品で、アニー・デュトワ氏が創作したものでもないですし原爆とユダヤ人を織り込んだ詩でもありません。つまり人の作品を二つ朗読しただけです。」とのコメントをいただきました。どんな詩を朗読するのかを確かめるために、短気を起こさず最後まで見ればよかったと後悔しています。しかしいずれにしても、音楽鑑賞の場に、安易な平和主義イデオロギーを混入させる企画者の意図に対して、私が反対であることには変わりません。(小浜記)
アルゲリッチ母子の奇妙な結合(小浜逸郎)
2015年09月07日 23時28分26秒 | 政治
*画像にポインターを当ててクリックしていただければ、拡大されます。
皆さんは、以下のような問題についてどう考えますか。
数日前、深夜たまたまつけたEテレで、8月17日に行われたサントリーホールのコンサートの模様を放映していました。演奏者はいまや巨匠とも呼ぶべき世界的ピアニスト、マルタ・アルゲリッチと広島交響楽団。曲は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲1番。
もう第三楽章も終盤に近い部分だったし、個人的にはアルゲリッチをあまりいいとは思っていないのですが、でもあの軽快で楽しい調子に思わず引き込まれ、貫録を増した彼女の演奏をほんの少し楽しむことができました。曲が終わって会場はやんやの喝采です。
画面が変わり、会場からではなく、局からの説明が入りました。それはアルゲリッチの次の曲とか彼女の演奏実績とかについての説明ではなく、彼女のお嬢さんについての詳しい紹介でした。お嬢さんは、平和活動(NPOでしょうか)をやっているそうです。その彼女がアウシュヴィッツとヒロシマについての詩を作ったので、それを会場で朗読するというのです。
再び画面が変わり、若い男性に続いて可憐な雰囲気のお嬢さんがステージに出てきました。お嬢さんが詩を朗読し始めました。若い男性は通訳でしょうか。聴衆は水を打ったように聞いています。とっさに私はいいようもない不快感を感じ、スイッチを切ってしまいました。もちろん意味を聞きとる以前のことです。
これはひねくれ者の個人的な性分にすぎないかもしれませんが、私は、文化と中途半端な政治的メッセージとを混合したこの種の「あいまいな」イベントが大嫌いです。
たとえばチャリティーコンサートとして売り上げを被災者や難民など、困っている人に寄付するというなら一向にかまいません。しかしこの催しはそれとは違います。一流のホールに世界的ピアニストを招いて一流の演奏を聴かせるという触れ込みで観客を集め、集まったその現場を巧みに利用して「平和活動家」のメッセージを発信する――この企画の中にはずいぶん不純でいいかげんで安っぽい思想がありはしないでしょうか。
アルゲリッチといえば、S席だったらまず二万円は下らないでしょう。それだけの入場料を払って会場に来たお客さんは、95%までは彼女の演奏が聞きたくて集まってきたので、「平和活動」のメッセージなどほんの刺身のつま以下のものとしてしか感じないはずです。
もっとも後で知ったことですが、このコンサートは、初めから「平和の夕べ」と題されていたそうです。演奏会の時期、広島交響楽団との組み合わせという点などと考え合わせると、お客さんの方もそのあたりはもともと織り込み済みではあったのでしょう。ちなみに広島交響楽団は、年一回、広島のフェニックスホールで「平和の夕べ」コンサートを催しているそうですが、楽団の設立趣旨や通常の演奏活動自体は、広島の原爆投下とは何の関係もありません。
いわばこのイベントは、演奏者も観客も善男善女であることを当て込んで仕組まれたもので、ほとんど誰も、アルゲリッチの演奏とそのお嬢さんの詩の朗読行為との間にあるギャップに対して違和感など抱かないのでしょう。
しかし繰り返しますが、私は「善男」ではないので、ここにいくつものおかしな連想ゲームによって成り立っている歪んだ意図を読んでしまいます。私のこの批判的な読みは、けっしてアルゲリッチやそのお嬢さんや、広島交響楽団に対して向けられたものではなく、もっぱらこういう企画を立案して平然としている人、またそれを公共放送の電波を使って全国に平然と流すNHKのプロデューサーに対して向けられたものです。
まず、この企画がどういう順序で進んだのか知りませんが、企画者は、アルゲリッチと親子関係にある人が「平和活動家」であるという「縁」に飛びついたことでしょう。でもこの縁なるもの、じつはクラシックの巨匠の芸術的価値とは何の関係もありません。
それはちょうど、フルトヴェングラーやカラヤンがたまたまナチス・ドイツの体制下で、一見その体制に「協力」しているかのような演奏活動を行なったからといって、彼らを非難するには当たらないのと表裏の関係にあります。音楽に政治的な思想性を求めるのは原理的に無理な話で、アルゲリッチおばさんが別にすぐれた平和思想の持ち主であるわけではありません。企画者は、芸術家の名声と、その子どもの「平和活動」とを安易に結びつけて利用しているのです。
、次に、企画者は、今年は戦後七十年という大きな節目だから、この際、毎年行われている広島交響楽団の「平和の夕べ」に世界的大物を結びつけて、人の集まる首都圏で大々的に平和思想のアッピールをやろうじゃないかと考えたに違いありません。安っぽい興行師精神の見本です。後述しますが、そもそもこの「平和思想」なるものが、現実的な思考回路や歴史への視線を欠落させた陳腐で浅薄きわまるものです。
もっと大事なことを言います。
このお嬢さんの詩は「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ」とを同時に歌い込んだものだということです。その出来栄えがどの程度のものか、聞くのをやめてしまった私に評価する資格はありません。
しかしごく一般的に言って、アウシュヴィッツとは、ナチス・ドイツが初めから抱いていたユダヤ人に対する激しい憎悪・蔑視感情を、一民族絶滅の実践にまで高めていった、その思想を象徴するものです。しかもこの憎悪・蔑視感情は、非ユダヤ系のヨーロッパ人の間にはるか昔から広く(いまもなお)潜在していたものです。それは、第二次大戦におけるドイツの軍事行動とは直接のかかわりをもたないのです(第三帝国完成というプログラムの範囲内には収まるかもしれませんが)。
これに対して、「ヒロシマの原爆投下」は、明白にアメリカの対日軍事行動であって、両者をその非人道性や悲惨さという共通点だけをよりどころに同一視するような情緒的な把握は避けなくてはなりません。この区別をきちんとしないと、思想として残るのは、単なる戦争や殺戮一般という抽象的なものへの忌避を根拠とした抽象的な平和主義・ヒューマニズムだけになってしまいます。
こうした同一視は単純でわかりやすいので、物事を深く考えようとしない多くの人に広まるわけですが、その結果、たとえば「ドイツはあの戦争を反省したが日本は反省していない」といった得手勝手な言い分や、最近の反安保法制の運動に見られる「安保法制は戦争への道」などというバカげた思考停止の感情的な心理基盤が作られるのです。
誤解のないように断っておきますが、アウシュヴィッツとヒロシマを区別せよといっても、アメリカの非人道的行為がナチス・ドイツのそれに比べて軽いとか、かつての連合国の理念のほうが枢軸国のそれに比べればまだましだとか言いたいのではありません。むしろ逆です。個々の歴史事象の質的な相違をしっかり見極めるところから、何に対してどう憤るべきかという正しい指針が生まれてくるのです。情緒的な同一視は、これこれの事態を引き起こしたのは誰かという具体的な問いを封殺してしまいます。
ナチス・ドイツがしたことはもちろんとんでもないことですが、連合国が、これだけを悪魔に仕立て上げることによって、自分たちのしたことを巧妙に正当化し、免罪してきたことも忘れてはなりません。このトリックは、旧ソビエト連邦のユダヤ人虐殺やシベリア抑留者に対する過酷な扱いから最近の中共政府の驚くべき歴史捏造にいたるまで、その隠蔽の構造を連綿と保存し続けているのです。
事実、日本で毎年行われるヒロシマ・ナガサキの追悼・祈念儀式には、「この恐るべき非人道的な行為の直接の下手人は誰か、われわれは誰に対して憤りを向けることが正当なのか」という問いが生まれてくる余地のまったくない欺瞞に満ちたものです。もちろん下手人はアメリカであって、そのことがうやむやにされてきたのは、アメリカが中心となって作り上げた東京裁判史観と、日本の左派が作り上げた自虐史観との合作によるものです。
いろいろと小うるさいことを申しましたが、要するに私が言いたいのは、アウシュヴィッツとヒロシマとをその悲惨さによって同一視するような粗雑なものの見方による限り、何億回平和を祈念してみても、戦争や虐殺はけっしてこの世からなくならないということです。両者を一緒くたに歌い込んだ詩を聞かされたコンサート会場の聴衆のほとんどは、おそらく善意に満ちた素朴な共感を示して拍手の一つもしたのでしょうが、それがいったい何だというのでしょうか。私はむしろ、「今日はアルゲリッチのピアノを聴きに来たので、余計なことはやらないでくれ」と感じた聴衆が少しでも会場にいたことを信じたい。
この企画の担当者およびこれを何の疑いもなく放映したNHKの担当者は、お願いですから、この種の文化と政治をあいまいに混同させる企画が、理性的にものを考えようとする頭脳の働きを麻痺させる作用しかもたらさないということに気づいてほしいと思います。
注記:この稿を自分のブログにアップした後、一読者の方から、「広島の詩は原民喜氏の『鎮魂歌』。ユダヤの詩はチャールズ・レズニーコフ氏の作品で、アニー・デュトワ氏が創作したものでもないですし原爆とユダヤ人を織り込んだ詩でもありません。つまり人の作品を二つ朗読しただけです。」とのコメントをいただきました。どんな詩を朗読するのかを確かめるために、短気を起こさず最後まで見ればよかったと後悔しています。しかしいずれにしても、音楽鑑賞の場に、安易な平和主義イデオロギーを混入させる企画者の意図に対して、私が反対であることには変わりません。(小浜記)