美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

「わたしを離さないで」(カズオ・イシグロ)について(その2)河南邦男―――『「東京物語」と小津安二郎』(梶村啓二、平凡社新書)について

2018年05月05日 19時33分40秒 | 河南邦男


はじめに
4月22日(日)にシネクラブ・黄昏で、私が担当者として映画「わたしを離さないで」を上映しました。その後、学生時代の友人で日本映画に造詣深い人と感想を話し合ったところ、彼が、『「東京物語」と小津安二郎』(梶村啓二 平凡社新書)を引用しながら、ヒロイン紀子(原節子、『東京物語』)と執事(カズオ・イシグロ、『日の名残り』)との同質性を主張しました。私は、反射的に「この二人が同質なんてあり得ない」と否定しました。

しかし、本書をひもといて著者の論旨を追えば、「そういうことも言える」と思いました。しかし、同時に二人の差異性を考えることも重要と思いました。

さらに、もっと重要なことは、紀子(原節子、『東京物語』)とキャッシ―・H(『わたしを離さないで』)は、同質性がはるかに濃いということです! もっとも、この場合も二人の差異性に注目しなければなりません。

以下、展開してみましょう。

〔1〕紀子(東京物語)と執事(日の名残り)の、同質性と差異性
二人の同質性は次の通り。

⓪出来過ぎた嫁と出来過ぎた執事
①過去の良き日の思い出や伝統を尊重している
②尊重の仕方は不自然なほどに完璧である。従ってそれは自己欺瞞でもある
③二人ともこのある種の自己欺瞞性を心の隅で自覚している
④生身の人間実存として、直ちには解決しがたい現実を自覚しつつ生を送っている。

まずは、それなりに、納得です。

しかし、違いはそこから先だ、と私は思う。

本には書いていないが、二人の差異性についても注目しなければならない筈である。それはラストシーンが如実に語っている。

❶紀子は、「時間」を押し進める、過去を一区切りするように新たな時間を切り開く。尾道から東京への帰還の列車の中で、義父から貰った形見の時計を握りしめ、汽車の驀進と共に、新たな人生を踏み出す決意を固めたと(私には)思われる・・・そんな生き方の転換ができたのは、葬儀の後の数日の滞在で、紀子と義父・周吉とが心を打ち明けて話し得たからである。また、紀子と京子(周吉の末っ子)とが打ち解けて話し得たからでもある。つまり、現在に生きている人々との心からの交流に後押しされて、未来へと向かうエネルギーを生み出し得たのである。

当映画では、幾つかの伏線を置きながら、紀子の心の再生が発現するクライマックスへの道を描く。

・周吉「云わば他人のあんたの方が、よっぽどわしらにようしてくれた」
※※※
・周吉「もう昌二のこたぁ忘れて貰うてええんじゃ。いつまでもあんたにそのままでおられると、却ってこっちが心苦しゅうなる。ーーー困るんぢゃ」
紀子「いいえ、そんなことありません。ーーーあたくし猾いんです。あたくし、いつまでもこのままじゃ居られないような気もするんです。このままこうしていたら、一体どうなるんだろうなんて、ふっと夜中に考えたりすることがあるんです。一日一日が何事もなく過ぎてゆくのがとても寂しいんです。どこか心の隅で何かをまっているんですーーー猾いんです。」
周吉「いやぁ、猾うはない」
紀子「いいえ、猾いんです。そういうことお母さまには申し上げられなかったんです」
周吉「ええんぢゃよ。それで。―――やっぱりあんたはええ人ぢゃよ、正直でーーー」
紀子「とんでもない」


❷一方「日の名残り」のラストシーンでは、執事は、なおも回想の中にいる。忍び寄る後悔をかみしめる。執事は、新たな「時間」を進めるには、あまりに時間に遅れ過ぎた(齢をとり過ぎた)。自己ならざる者・他己に奉仕することに時間を蕩尽した己の人生を無駄使いしたと後悔する。仕えた主人は、今や裏切者とまで非難されている。ありえたかもしれない彼女との生活を永遠に失った・・・と想起する・・・孤独感と諦めきれぬ思いが脳裏に満ちる。

〔2〕紀子(東京物語)とキャッシー・H(わたしを離さないで)の、同質性と差異性
さて、カズオ・イシグロは小津安二郎の映画を見ている。カズオ・イシグロは、映画「わたしを離さないで」を監修している。紀子は28歳という。映画のヒロインのキャッシー・Hも冒頭に「私は28歳・・・」とナレーションを始める(ちなみに、小説では31歳である)。

ここで私はにわかに気づいた。紀子(東京物語)とキャッシー・H(わたしを離さないで)の同質性は、執事の場合よりも濃いということである! もちろん二人の差異性についても考慮せねばならない。

両者の同質性を列挙してみる。

⓪出来過ぎた嫁と出来過ぎた生徒かつ介護人・提供者
①過去の良き日の思い出や伝統を尊重している。後者の場合は体制や仕組みを尊重している
②尊重は不自然なほど完璧である、従ってそれは自己欺瞞でもある
③二人ともこのある種の自己欺瞞性を心の隅で自覚している
④生身の人間実存として、直ちには解決しがたい現実を自覚しつつ生を送っている。

しかし、そこから先が微妙に違う! それはラストシーンが如実に語っている。

❶紀子については、既に上記に述べた。一方、映画「わたしを離さないで」のラストシーンでは、原作に無いことをキャッシーは言う。イシグロが監修しているのだから、これは本音であり小説の主題(テーマ)でもあるのだろう。まずは、ラストシーンの情景とキャッシーの最後の独白を聞こう。

・小説のラストシーン
「わたしは一度だけ自分に甘えを許しました。トミーが使命を終えたと聞いてから二週間でした。用事もないのに、ノーフォークまでドライブをしました。・・・」。

(この時、キャッシーにも「通知」が来たことを匂わせている、小説の冒頭に(後八カ月、今年の終わりまでは続けて欲しい)と言われている。にもかかわらず彼女のこの自制心と落ち着き方はどうだろう)

「わたしは初めて自分に空想を許しました。やがて地平線に小さな人の姿が現れ、徐々に大きくなり、トミーになりました。トミーは手を振り、わたしに呼びかけました・・・」

(普通人が、いつも自分に甘えや空想を許しているのに、キャッシーのこの潔癖さはどうだろう。良い教育を受けると、人の魂はここまで高まるのか、介護人という辛抱強い職務にも精励できるのか。
小説のラストは、キャッシーの心の高貴さと強さを表している)

「空想はそれ以上進みませんでした。わたしが進むことを禁じました。顔には涙が流れていましたが、わたしは自制し、泣きじゃくりはしませんでした。しばらく待って車に戻り、エンジンをかけて、行くべきところへ向かって出発しました。」

(行くべきところが、単なる職務上の行き先なのか、提供の準備の為に行く回復センターなのか、小説は抑制的に過ぎる描写である。いずれにしても、キャッシーの最後のセリフは、感情の抑制と義務行為の揺るぎない遂行である。あの執事の言う「品格」がここにある。これは、英国人のあるべき姿が、キャッシーにおいて体現されていることを意味する。へールシャム教育の成果である。キャッシー自身の誠実な努力の成果である。魂は「存在する」どころか、高貴なまでに成長していたのである)

・一方、映画のラストシーンは、監督の解釈が入っている。

(広い耕地を前にして、有刺鉄線に引っ掛かったゴミ、つまりこの世の忘れものが吹き寄せられているのを前にして、キャッシーはつぶやく)

トミーが地平線の彼方から現れたらどうだろうか、でもその先は想像しない・・・

(この辺は、例によって、キャッシーの自制心である。小説のように映画でも、涙はキャッシ―の頬を伝うが、泣きじゃくりはしない)

・・・私は、トミーと知り合っただけでも幸せだった・・・」

(キャッシーにとって、出遭いだけが、人生の幸せだったのだろう、いや我々の世界だって本当は出逢いだけが人生の幸せなのであるが・・・)

・(映画のキャッシーは、ここで明言する。おそらくカズオ・イシグロの言いたいことである)

私は自分に問う

(・・・問うているのは、こんな制度を作った社会にではなく! 自分にである)

私たちと私たちが救った人たちとはどんな違いがあるのだろうか。人はいずれ終末を向かえる。だれもが生を理解すること無く、命尽きるのだ」。

(映画の主張は、かなり踏み込んでいる。ドナー制度の無意味さ、延命することの無意味さ、生の根源的な無意味さ〈仏教的な意味の「空」に似た〉、人の幸せとは人と人との出遭いである〈仏教的な意味の「縁」に似た〉、などを語らしているように思える・・・) 

❷キャッシーは、「時間」を押し進めることは運命的に出来ない。キャッシーは、あるおぞましい仕組みの「手段」として生まれてきており、自らを「目的」として生きられないのである。キャッシーは、紀子より数百万倍ものハンディを担っているのである。

二週間前、生涯にわたり愛したトミーを失った。それより若干前に、イケズな友人しかし最後は理解し合った友人ルースを失った。つい先日、自分にも「通知」が来た。キャッシーの前には、予め定められたことであるが、終わりの始まりである「提供」という巨大な壁が迫ってきている。

しかし、ここに至って、キャッシーはこの過酷な時間を主体的に受け止めている。勇者のように潔く受け止めている。彼女は時間を支配しているのである。紀子のように他人に後押しされることなく、また執事のように孤独に沈むのでもない。友人であり恋人である人々の記憶を、施設での生活を、すべての過去の記憶を抱いて、新しい任地(!)に赴こうとしている。

著者のメッセージが込められているものと思われるキャッシーの精神は至高の高まりをみせ、時空を超えて「仏教的空」、「仏教的縁」に近い概念を述べている。

〔3〕「東京物語」は、保守的か、非革命的か、だから悪いのか
ここで横道にそれるが、「キャッシー達はどうして反抗しないのか!」(つまり、時間を自分の意志のままに推し進めないのか)などという意見を言う者もいるかも知れないが、これはまともに答える必要がない問いである。「わたしを離さないで」は、SF映画ではない。荒唐無稽な活劇ではない。つまり、ハリウッド映画ではない。「東京物語」は、保守的であり、非革命的であり、だから悪いというのと同じ愚評である。

「わたしを離さないで」は、異常な世界を語りつつも、ひたすら我々の日常を語っているのである。我々日常人も(・・・変な言い方だか)、生まれてこの方、環境という桎梏のベールを一枚一枚剥ぐようにして認識を進めており、不条理にもがきつつなんとか日々を生き延びているが、「革命」や「反乱」などしないではないか。

この辺りのことを、『「東京物語」と小津安二郎』の著者は以下のように言っている。

・本書p194
なぜ、彼らは戦わないのか。叫ばないのか。否と拒否しないのか。これは私が望んだことではないと。こんなはずではなかったと。

だが、思えば、彼らの苦痛、苦悩をもたらしているのは外からの特別な攻撃や劇的な事件ではない。彼らを苦しめているのは、生きることと同意の避けがたい何事かだ。(略)それぞれが引き受ける自分の生活経済を守る労苦とそのためのエゴ。取り返しのつかない自分の過去。ふと気づく自分の力量の限界、子供たちの力量と可能性の限界。(略)戦争、息子の戦死、人の戦死。あらためて気づく友とおのれの老い。ふいに訪れる伴侶の死、孤独。そして、やがて来る自分自身の死の予感。

それらは、個人の良心や努力によって変えられるものではない。社会を変構すれば避けられるというものでもない。つまるところ、「東京物語」は、抵抗するすべのない避けがたい何事かを静かに受け入れていく人々を描いた映画なのだ。受け入れる作法としての軽さを描き、そして何よりも、その尊厳を描いた。

避けがたきもの。人が生のうちに遭遇する避けがたさは多々ある。だが、その中で誰も逃れることのできないものがあるとすれば、それは「時間」、ではないだろうか。それら人生において避けがたきもの、避けがたい変化すべてをもたらすのは他ならぬ時の流れそのものだ。 

時間。わたしたちを等しく運び去る地上の王。「東京物語」の人々が受け入れているものは、じつは時の流れであり、時間という王こそがこの作品の真の主人公なのかもしれない。


なお私は、筆者の言うこの「時間」の概念を借りて、紀子、執事、キャッシーが「時間」とどう向き合ったかをそれぞれの差異性を考える際に用いた。
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