マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

講演「関口存男の凄さ、ヘーゲルの偉大さ」の報告、2(白鷺通信)

2017年05月08日 | カ行

        白 鷺 通 信

             2027年4月25日発行
                 姫路文学館、研修会講師・牧野紀之


 22日は有意義な時間を過ごすことが出来てありがとうございます。レポートを出さないで帰った方がかなりいらしたようですが、残念です。終わり方をはっきりさせなかった私のミスだと思います。提出者は29名で、会員番号の書いてないのが1枚、名前も番号も書いてないのが1枚ありました。

 そもそもこのような大テーマを2つも90分で取り上げようという考えに無理があったのだと思います。しかし、それは承知の上でやったことです。最後まで付き合っていただけて感謝しています。
以下において発言者名として「1番さん」「2番さん」……とあるのは、会員番号順に若いものから順に並べて、順に番号を振ったものです。

「全員に感想を書き、その上に教科通信を出す」と約束しましたが、実行できませんでした。ここに載せた方には個々には感想を書きませんでした。ここに引く文のなかった方が若干名います。それらの方にはレポートに直接メッセージを書きました。

  予習復習

★そういえば、大学受験の頃、たしかドイツ語のラジオ講座で関口先生の名を聞いたように思いますが……。(1番さん)
──英語ではなくドイツ語で大学を受験したのですか。それとも、受験勉強の合間にドイツ語のラジオ講座を聞いたのですか。いずれにせよ、偉いと思います。

★予習とは言えませんが、昨夜、ネットのウイキペディア(マキペディア?)を読んだ程度です。
──何という記事を読みましたか。どう思いましたか。

★60年余り前、学生時代に、関口先生の文法書などを読んだことがある。懐かしく思ってお話を聞きたいと思い、参りました。(5番さん)
──学生時代が60年余り前とは、私より年輩ですね。関口文法の魅力に引き寄せられた人は沢山います。今でも新しく生まれているようです。しかし、それをずっと続けて、本にまとめた人は出ていません。

★講演会はよく参加しますが、いつも予習はしていきません。しかし、今日の話を聞き、予習の大切さが分かりました。(11番さん)
──講師生活の最後の方はブログ時代に成りましたので、授業のためのブログを作って、例えば金曜日の授業では、「木曜日の午後2時までにブログに『明日の予定』を発表するから、それで準備をしてくるように」と言いました。

★NHKの『60分で名著』の司会者(伊集院氏)に関心を持っています。哲学すること=日々の生きざまの中で考えることが大切だと分かりかけているところです。(15番さん)
──NHKは真面目で大切な事柄を分かりやすく親しみやすく教えてくれると思います。しかし、それを本当に生かすには、気付いた事について何らかの形で文章を書くところまで進むことでしょう。

★ヘーゲルについては、書いたものを読んだことがあるので、今回の講演でもっと深く知りたくて参加した。(16番さん)
──結果はどうだったかと思いましたが、「分からない事が分かった程度で、内容は理解不能でした」とあります。「マキペディア」を読んでみるとのことですので、それでいいと思います。「コメント」欄にコメントを書いて下さい。

★ヘーゲルについては、学生時代に歯が立たなかった苦い思いがつのるばかりです。(27番さん)
──訳している人が、分からないままにただ文だけを日本語にしているのですから、読者に分からないのが当然です。レジュメに拙訳を長々と引いておきましたから、まずそれをゆっくり、考えながら読んでみてください。間もなく未知谷から拙訳『小論理学』を出します。沢山の注釈を書きましたので、1200頁を越える大著に成りました。1万円前後の値が付くでしょうから、図書館に入ったら借りて読んでみてください。今度は分かるはずです。

  関口文法

★文法の問題については何ら疑問を抱いたことはなかった。本日の話は専門的で難しかったが、新鮮さがあって楽しかった。(2番さん)
──もし気が向いたら、「募金」という単語について『新明解国語辞典』と『明鏡国語辞典』とを引いて、比べてみてください。自分はどう思っていただろうかと反省もしてみてください。編者の意見を丸のみしないで、語義の変遷にはどういう法則があるのかという問題を、問題だけでいいですから、記憶しておいてください。

★私は文法より用語の方で日本のリーダーたちの使う外国語の多さに疑問を感ずる。無理に外国語を使っている気がする。適切な訳語を作り出せないリーダーたちである。(4番さん)
──同感です。明治時代の人は適当な日本語を考えたので、事物の本質を考えざるを得なかったのだと思います。「自転車」なんて素敵ですね。「サイクル」では特徴が分かりません。『海潮音』なんて原詩よりも優れているという説もあるのではないですか。そういうものが出てくるのは土壌があったのだと思います。

★『ファオスト』〔関口さんは「ファウスト」よりこの方が発音に近いと言っています〕の訳1を先生が「往くべき道を」として「五七五七七」にされたのは、素晴らしいと思いました。(5番さん)
──関口さんはシーザーの有名な句「来た、見た、勝った(veni, vidi, vici)」の独訳がIch kam, ich sah, ich siegteとなっているのは、真っ当なドイツ語としては適当でない。Ich kam, ich sah ── ich hatte gesiegtと、最後を過去完了にするべきだ、と言っています。しかし、ここに但し書きを付けて、「私でもこれの独訳を命ぜられたら前者と同じに訳しただろう。即ち、美しさやリズムのためには、誤訳曲訳百でもござれというのが真の反訳である」と書いています(『不定冠詞』103頁)。
 『ファオスト』の該当箇所はdes rechten Wegesと元々Weg(道)という語が使ってありますし、「所に」などと訳す理由はありません。「上手の手から水が漏れた」のだと思います。

★文法知識の重要性については、より具体的な例を挙げて説明して頂きたかったと思います。(12番さん)
──「イエス・キリスト」とか「楽しいクリスマス」以上に具体的な例があるでしょうか。

★「原文に忠実であるより原意に忠実であることが大切」には賛成ですが、訳文には時代や文化などもトータルに考慮すべきではないでしょうか。鴎外の時代には「善い人間は……」という表現は受け入れられたのでは、と思います。(13番さん)
──逆ではないですか。「好漢」という語は今以上に当時は使われていたと思います。

★ことばを文法という視点で考えるという事は実感してなかった。ただ、事象を原意と原色(原勢)をくみ取って表現するのは本質的であると思う。(17番さん)
──あなたの文は分かりにくかったです。パソコンで書いて、印刷してみて、自分の文を客観視する練習をしてみてください。

★日本語の魅力は助詞にあるというのはうなづけます。助詞の使い方で話し手の心模様が違ってきますね。(20番さん)
──最も面白い助詞は「も」だと思っています。「規則は規則だ」や「事が事だからな」は外国語でも言えますが、「AさんもAさんだよ」は難しいです。又、「夏『も』近づく八十八夜」は「夏が近づく」とも「夏は近づく」とも違うでしょう。しかしどう違うかを研究した人はいるのでしょうか。

★先生のおっしゃる世界は非常に楽しいというか、豊かな気がします。昔、「be love」という少女向けの雑誌があり、私が「恋せよ乙女」と言ったら〔「訳したら」?〕、ずいぶん反対されたのですが、「意」は得ていたのではと、お話を伺って勝手に思っています。文章というのは意を突き詰めると楽しいけれど、過ちも犯すかもしれない。それで無難な所で筆を置く、という事になるのでしょうか。
──経験を踏まえた立派な意見だと思います。関口さんの訳した『ファオスト』(部分的ですが)と鴎外の訳とを比較すると「こうも違うものか」と思うでしょう。名訳と平凡訳とを比較して学ぶのはかなり有効な方法だと思います。

★歌曲「菩提樹」の「ここに幸あり」の意味、そう〔「泉に飛び込んで自殺すれば楽に成れる」ということ〕だったのですか。(28番さん)

 参考(田辺茂樹説)『冬の旅』ではひとりの孤独な男の姿が描かれています。(略)ここでは愛はあらかじめ失われています。愛は苦い思い出として……語られるばかりです。そんな中にあってこの「菩提樹」だけは、ほんのつかの間とはいえ、かつての幸福と喜びの感覚がよみがえる。……ピアノの伴奏が、そよ風に揺れる菩提樹の枝のざわめきを描写し始めると、痛切な憧れに満ちた甘美な郷愁が、堰を切ったようにあふれ出します。しかし、最後の節で接続法第2式の言い方が示すように、おそらく「私」は二度と、あの菩提樹の木陰で安らぎを見出すことはないのでしょう。(田辺『やさしく歌えるドイツ語のうた』日本放送出版協会59頁)

──田辺説と関口説のどちらが説得的でしょうか。田辺の「そよ風に揺れる菩提樹の枝のざわめきを描写し」は完全な間違いだと思います。「帽子も吹き飛ぶほどの疾風が荒れ狂っているのです。零下20度にもなるドイツの真冬の真夜中の描写だという事を忘れたのでしょうか。「二度と」と言っていますが、かつて「幹に愛の言葉を刻んだ楽しかった事」の再来が問題だと思っているのでしょうか。


  休憩「きよしこの夜」

★ 清らかな雪降る夜 / 暖炉はあかあか燃え
  ローソクの火チロチロ揺れ / 心寄せ合う家族
  窓から見る星々は命の輝き
   Merry Christmas を ! ! (26番さん)
──見事な詩をありがとうございます。但し最後の「を」は蛇足でしょう。Merry Christmasの中に入っています。

★ドイツのクリスマスの映像と歌は講座の休憩としてとても良いアイデアでした。4本のろうそくは宗教的にはもっと深い意味があります。「四旬節」のことです。(28番さん)
──ご教示ありがとうございます。早速ドイツ語版ウイキペディアでAdventskranz(アドゥヴェンツクランツ)を引いてみましたら、こう書いてありました。「①これは1839年にプロテスタントの神学者のヴィヒェルン氏が始めた、②彼はハンブルクの人だが、1833年、極貧の子供を何人か引き取った。③その子供たちは「クリスマスはいつから始まるの?」と何度も聞いてきた。④そこで彼は古い車輪を使って、そこに20本の小さい赤いろうそくと4本の太い白いろうそくを飾ってカレンダーとした」。

又、『大辞泉』で四旬節を引いてみたら、「キリスト教で、復活祭前日までの46日間から日曜日を除いた40日間の斎戒期間。キリストの荒野での40日間の断食・苦難を記念するもの」とありました。復活祭は春分の後ですから、やはり私の粗末な説明の方が正しいのではないでしょうか。28番さんは何かと勘違いされたのでしょう。しかし、お陰様で、調べる機会を与えられてありがたかったです。

  全体的感想

★今日の講義は大変ショッキングな話でびっくりしています。最後の「マルクス・エンゲルス批判」は「そうだったのか」と目を開かされた思いがしました。(4番さん)
──マルクス主義については共産党という政治団体及びその運動との関係があって、純粋に学問的に研究したり議論したりすることが出来ないという事情があります。とても不幸な事です。

★ヘーゲル理論を深く解釈したい。今期の放送大学で「政治学へのいざない」をとっています。政治学を自分なりに深く研究したいと思っています。(7番さん)
──「いつまでに何を読む」といったことだけでもいいですから、「研究計画」を立てて勉強するといいと思います。そして、区切り区切りで文章を書くといいと思います。更に、自分のブログを作ってそこに発表するといいと思います。自分を客観視できるからです。俳句の腕を上げるには、他者に聞いてもらうことだ、という話しをラジオで聞きました。

★講演の題名は「関口文法の凄さ」の方がよかったのでは?(8番さん)
──それなら後の方も「ヘーゲル哲学の偉大さ」とすべきだということになるでしょう。全体を見て考えてほしいと思います。また、「ヘーゲル」では「哲学(の内容)」を意味するのが普通ですから「ヘーゲルの偉大さ」で分かりますが、例えばヘーゲルの哲学ではなく、その文章力を取り上げる場合には「ヘーゲルの文才の低さ」としないで、ただ「ヘーゲルの低さ」としてはならないと思います。こういう点も考えてください。実際、ヘーゲルの文章力はその哲学に釣り合っていませんでした。

★資料を読まれるだけだったのは、とても残念でした。(8番さん)
──これは私にも分かっていました。上にも書きましたように、元々このテーマを1回90分で取り上げること自体が無理だったのだと思います。ですから、事後に勉強できるようにと、プリントを多めに用意した次第です。又、教科通信も頁数を多くしました。

★先生と出席者の知識の差が大きすぎる。資料に十分目を通さずにいきなり先生の話に耳を傾けるのは無理がありすぎる。先生は、この哲学を学ばれる気になられた動機を知りたい。(18番さん)
──すぐ前の意見への答えと同じです。無理は承知の上でした事です。ヘーゲルはその『精神現象学』で「意識が低い形態から高い形態へと発展してゆくには、前の低い意識が自分に絶望しなければならない」と言いました。私はつい最近になってようやくこの言葉の実践的な意味に気付きました。「先生の仕事は生徒を絶望させることである」と。初めに分からなかっただけで辞める人には哲学は無理です。「分からなかった『からこそ』分かってやろう」と志す人だけを相手にするつもりです。私が哲学を志したのは、「世の中をよくしたい」と思ったからであり、革命家に成ろうと思ったからです。1958年頃は学生運動が盛んでしたので、それに参加しましたが、すぐ失望しました。そこで悩んだ問題を考えるのに役立ったのがヘーゲル哲学でした。長い長い精神的どん底生活でした。

★久しぶりに授業らしい授業を受けることができて、充実した時間を過ごすことができました。(10番さん)
──ラジオ深夜便は聞いていますか? 私は、あそこで聞いたことで興味を持つとネットで調べて、図書館で借りたりします。最近は前田侑子の『中国菜』を知りました。拙著『哲学の授業』は姫路市の図書館にあります。そこでの教科通信『天タマ』はすべてブログに載っています。看護学生の真摯な意見を聞いてみて下さい。レベルが高いので、びっくりしますよ。

★少しですが、マルクスとエンゲルスよりヘーゲルの方が思想が大きかったということが解りました。(14番さん)
──これは私の考えです。簡単に賛成しないでください。「フーン、そういう考えもあるのか」くらいにして、レジュメを読んで考え、今後も気を付けておいて下さい。

★ 「思想のスケールという点ではヘーゲルの方がマルクスよりも大きかったと思う」と言われましたが、慶応大学の経済学部で50年前の自分を振り返って、その当時からバクゼンと、この先生の断言を予感していた自分を感じており、本日はそれが何となく自信めいた気持ちとしてうれしく思いました。(22番さん)
──自分でヘーゲルとマルクスを読んだ上でそのような「予感」を持ったのでしたら、立派な事だと思います。それにケチをつけるつもりは全然ありませんが、「学問とは何か」という問題をこの際、確認しておくことも大切だと思います。

 というのは、「漠然とした予感」と「明確な概念を使った学問」との間には天と地ほどの開きがあるということです。もしこの両者の違いが「大したことない」ならば、ラヴォアジェの酸素の発見も「大した事ではない」となります。当時、燃焼現象はほとんど解明されていたのです。ラヴォアジェはその物質に「酸素」という名を付けて、燃焼を酸化現象だとした「だけ」なのです。

 私は自分の学生運動の経験から「本質論主義」というものを打ち立てて或る成果を挙げ、それを踏まえて「本質論と戦術論」という論文を発表しました(拙著『ヘーゲルからレーニンへ』に所収)。その頃、1970年代中頃ですが、私は東京で鶏鳴学園という哲学私塾を開いていましたが、そこには60年代末の学生運動に挫折して「本当の理論をやりたい」という人たちも集まってくれました。その中にはその論文を読んで感銘を受けてくれた人もいました。しかし、その「感銘」はせいぜい「あれは本当にその通りだ」という程度のものでしかありませんでした。「自分はなぜ自分の漠然とした感じから牧野さんのような理論と実践を産み出せなかったのだろうか」という問題意識を持って自己反省を深め、自分の理論と実践を打ち立ててくれた人は一人もいませんでした。

 「自分にもだいたい分かっていたのだ」という負け惜しみで自分をごまかしている人は哲学の異邦人だと思います。「自分は負けたのだ」という「絶望」を全身で受け止めて進む勇気のある人だけが哲学する人なのだと思います。

★予習は十分には出来ませんでしたが、このような形式(レポートを書きながら)の講座は、自分自身を刺激しながら聞くことができ、有意義だったと思います。(23番さん)
──「白熱教室」と比較して考えてほしいとお願いしましたが、この比較をした人はゼロでした。理性的を英語でrationalと言いますが、ratio(ギリシャ語の「ロゴス」)とは「比」とか「比較」という意味です。比較して考えるのが「理性的」なことなのです。自分はどっちを取るのかという選択から逃げている限り、考えも行動も前進しないでしょう。

★本日の授業は私にとって若い頃を思い出す良い機会となりました。(25番さん)
──その「若い頃の思い出」をいくつか書いてほしかったです。

  あとがき

 どういうキッカケだったかは忘れましたが、姫路市に立派な文学館があるらしいという事を知ったのは2014年の秋のことだったと思います。関口存男が姫路出身だということは知っていましたから、「関口を顕彰しているかな」と思って、その文学館のホームページを開けてみました。きれいなホームページでしたが、案の定、関口を顕彰してはいませんでした。

 ただちに私は抗議のメールを館宛てに送りました。間もなく返事が来て、特に顕彰はしていないが、資料は集めていて、牧野の『関口ドイツ文法』も購入済みだ、とのことでした。

 その後、少しやりとりがあって、①2015年の春ごろから館の大改装があるので、その時に事態を改善したいと思っている事、②館長の藤原正彦さんも関口を知っていて、いや、それどころか、かつて関口のラジオ講座を聞いたことがあるほどで、評価している事、などが分かりました。

 このようにして動き出した事態の結果、紆余曲折を経て、今回の私の「講演」という名の授業が実現したのでした。

 21日の午後、初めて見た姫路の町は緑が多く、道路も広々として、好感の持てるものでした。白鷺城を中心として、それを取り巻く環境をその中心に恥じないものにしようという市民の意志が十分に感じられました。

 たった1度の授業ですが、この「通信」をその記念としたいと思います。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。