| カ行
学校が小学校から中学校、さらに高校から大学へと進むにつれて、よく、「中学校は(小学校と違って)自分で勉強する所だ」とか、「高校は(中学校と違って)自分で勉強する所だ」とか、「大学は(高校と違って)自分で勉強する所だ」といった言い方がなされると思います。
「中学校は~」という言い方は余りないかも知れませんが、「高校は~」という言い方と「大学は~」という言い方はたいていの人が聞いているのではないでしょうか。
今回はこれらの言い方を「大学は自分で勉強する所だ」という言葉で代表させて考えてみたいと思います。最近読んだ立花隆氏の『脳を鍛える』(東大講義)(新潮社刊)の中でも氏はそのような事を言っていました。
私も半分無意識的にではありますが、生徒であった時にも教師になってからも、事実上そのような考え方をしていました。しかし、大学で教師をしていたある時、これは決定的に間違っているのではないかと思うようになりました。
たしかに勉強における主体的契機、つまりいわゆる「やる気」とか努力というものを強調するだけならこの言葉も正しいと思います。しかし、実際にはこの言葉はそれ以上に、教師の指導の決定的重要性を見逃させる役割を果たしていると思います。これが問題なのです。
もし本当に「大学は自分で勉強する所だ」とするならば、教師は何のためにいるのでしょうか。それなら教師は必要がないのではないでしょうか。こう考えただけでもこの考えの間違いは自明だと思います。ではどこが間違っているのでしょうか。
人間を勉強への取り組みに関して分類すると次の3種類に分けられると思います。
A・自分でどんどん勉強する人(変人)
B・宿題(先生の適切な指導)があれば勉強する人(凡人)
C・宿題(先生の適切な指導)があっても勉強しない人(ろくでなし)
次にこのABCの割合はどうかと考えてみますと、ほとんどの人はBだと思います。つまり、一部の変人とろくでなし(もっとも気の毒な事情のある場合もある)を除くと、大部分の人間は「先生の指導がある限りで勉強する」という種類の人間なのです。
人間の心の中には誰の心の中にも「勉強したい」「成長したい」という気持ちがあるのです。しかし、人間はそれだけでは勉強しないのです。勉強したいという気持ちに先生の指導という「外からの強制」があって初めて勉強するのです。
人間は神様でもなければ獣(けだもの)でもないのです。その中間なのです。だからこそ、「先生に引っ張ってもらおう」「宿題を出してもらおう」と思って学校に来ているのです。だから、勉強では先生の指導力が決定的なのです。
ここまで言うと聞こえてくるのが、「我々の頃は自分で勉強したものだ」という教授たちの声です。立花氏の本からもそのような声が聞こえてきます。
「今の若い者は~」といった言葉は老人の口癖ですから聞き流しておけば好いのかもしれませんが、私がこの「大学は自分で勉強する所だ」という考えを決定的に否定する気持ちになったのは、この教授たちの考えの間違いに気づいたからです。
ドイツ流に言うと私の主専攻は哲学で副専攻はドイツ語ですが、私はこの2つの学問で見てみますと、その「自分で勉強した方々」の「学問」がとてもお粗末だと思うのです。そして、その最大の原因が、先生から正しい指導が受けられなくて「自分で勉強した」結果だと思うのです。
哲学については説明が大変ですからドイツ語学について言いますと、40年以上前に出版された橋本文夫氏の『詳解ドイツ大文法』(三修社)はお世辞にも「詳しい」と言える代物ではありませんが、それにも拘らずそれ以上の文法書が出ないのはどうした事でしょうか。
初等文法が終わると読本の読解に進みますが、その読本には巻末に注解が付いています。これは英語の読本の場合と同じです。しかるに、その注解はあまりにもお粗末ではないでしょうか。間違いも散見されますし、必要な説明の落ちている事も多いです。それ以上にひどいのは、「ここは説明しなければならない」と気づきながら説明が出来ないために素通りしている所のあることです。
そして、決定的に困ることは、注解全体を通して「言葉を科学するとはどういうことか」を教える姿勢が感じられないことです。例えば、ドイツ語の話法の助動詞の説明では、形と一般的な用法とその箇所の意味の3つを書かなければならないのに、その内のどれかを恣意的に書いているのが普通です。
私の調べたのは学界で「大家」として名を馳せている方々のものですが、それがこの通りなのです。これが「自分で勉強された方」の学問です。
ではどうしてこのようなお粗末なことになっているのでしょうか。私は、それは、「自分で勉強した」ために、先人の成果を十分に受け継がなかったからであり、そのために学問が蓄積されていかず、発展していないからだと思います。
高校も大学も「自分で勉強する所」ではありません。先生の指導を受けて勉強する所です。それによって過去の成果を速やかに吸収して、学問を更に発展させる所です。
(初出「教育の広場」2000年12月06日。再掲「第2マキペディア」に2011年09月27日)
関連項目
教師と生徒の役割
「自分で勉強した」というのは個人が離れ島で一人瞑想に耽ることではありません。
当然、先人の遺産に学び、それを咀嚼するもので、先人の成果を十分に受け継ぎ、さらにそのパラダイムを超える発想が求められるということです。
これが対立物の相互浸透、否定の否定という弁証法的運動の発展です。
語学で言えば、ソシュールのラングを言語本質とする誤りの克服が必要であり、それは既に時枝誠記が提示し三浦つとむが展開しています。
しかし、弁証法を唱えるブロガーの発想は単なるあれかこれかの形而上的な形式論理でしかなく、そのことは、「時枝意味論の論理的再構成(その1/2)」に示されています。
レーニン/スターリンによる唯物弁証法の歪曲を乗り越えない限り、論理的、科学的な学問の展開、発展はありえません。
今時、パヴロフの条件反射説やソシュールパラダイムの連辞や連合などという現象論、結果論を論じているようでは、弁証法のベの字も理解できていないというしかないのでは?