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日本共産党の民主主義

2009年08月30日 | カ行
 立花隆氏は『日本共産党の研究』(講談社)で共産党を批判したが、その中心は民主集中制批判にあった。共産党からの反批判を『文化評論』(日本共産党中央委員会発行)の第180号(1976年04月刊)で読んでみた。極めて感情的な文で、「こんなにヒステリックにならなくてもよさそうなものだが」と思ったが、内容もあった。

 立花氏の民主集中制批判に対しては、「(立花論文は)規約についても、実際の党運営についても、無知もはなはだしい」とした上で、まず規約をかいつまんで説明し、次いで「日常の党活動」を次のように描写している。

 「具体的に、日常の党活動をみてみよう。経営〔企業〕や農村、地域などに党の基礎組織(支部)があるが、この支部会議などで方針をだすときは、きわめて自由活発に討論する。ケンケンガクガクのときもある。どんな制限もない。多数決できめたら、この方針にしたがって、みんなが活動をする。多数の意志、認識を尊重するのが民主主義であり、自分1人をそれ以上のものとしてエリート視することは避ける。もちろん少数意見は保留してもよい。ただ、党は討論クラブではなくて政治団体だから、少数意見は保留しながら、団結して決定を実行する。場合によっては、少数意見のほうが正しいこともある。やがてそれがわかれば、討論のすえ少数意見が多数意見になり、みんながこの新しい決定を統一して実行することになるのである」(47~8頁)。

 これについて私見を述べる。

 ① 自由活発な討論は結構だが、「ケンケンガクガク」〔正しくは「カンカンガクガク」〕は弁証法的唯物論の立場に立った理性的討論=集団的思考ではない。ケンケンガクガクの討論では口が巧くて押しの強い人が勝つだけである。

 ② 「どんな制限もない」という句は「あらゆる機関にたいする質問、意見、回答を求める権利」(規約の説明文)を言ったものであろうが、文としては拙い。口が巧くて押しの強い人が勝つのではなく、真理が勝利するように、制限つまり「討論の規律」を作らなければならない。共産党にはそもそもこういう問題意識が無いらしい。

 ③ 多数決で決まった事に従ってみんなで活動することと多数の意志を尊重することを等置して、それを民主主義としているが、これは間違いである。民主主義はたしかに多数意見を尊重するが、その意味は「多数意見は全体の名で実行されてよい」という意味であるし、その時、少数意見者はその方針の実行を妨げることは許されないが、協力する義務はなく、静観していてよい。言論で反対意見を表明し続けてもよい。だから、民主主義は多数意見に従って「みんな」で、つまり少数意見者も一緒になって活動することではない。これは民主集中制である。共産党には民主主義と民主集中制の異同がはっきりとは分かっていないようだ。こんなに理論水準が低くては前衛ではなく後衛でしかない。

 更にここで言っておくべき事は、多数意見が全体の名で実行されるのは、多数意見が正しいからではなく、それが多数意見だからである。これが分からない限り民主主義も民主集中制も分からないと思うが、共産党にはどうもこれが分かっていないらしく、だから次の点が問題になる。

 ④ 「少数意見は保留してもよい」という文は、当然、「多数意見に改宗してもよい」ということが前提されている。しかし、採決時まで自説を主張して、そのまま採決になったのに、採決の結果少数意見と判明した途端に多数意見に改宗するなどということは、自主的思考のすることではない。改宗するなら討論の最中である。あるいは多数意見が実行されてその結果を見た時である。

 従って、この文は「多数意見者は少数意見者に自己批判を要求してはならない」とすべきである。そして、その時には、党規約の第2条「党員の義務」の第6項から「自己批判」という語を削除し、「自己批判の自発性」という考え方を受け入れ、党内に周知徹底させなければならない。私の知る限りの共産党員が自分の頭で考えられなくなり、泣きべそをかいても「党の理論」にしがみついたり、開き直って大声を張りあげたりするのは、査問に呼ばれて自己批判をさせられるのが恐いからである。

 なお、〔他者〕批判については、批判の「権利」だけが規約の説明の中で出てくるが、これは規約第2条第6項にある「批判の義務」の面こそ強調しなければならない。なぜなら、党員の間でも、現在の社会で上位の地位(例えば大学教授)にある人や「言わせない雰囲気」を持っている人には、陰で批判するだけで、正式の会議で批判されていないらしいからである。

 ⑤ 「やがてそれ〔少数意見の方が正しいこと〕がわかれば、討論のすえ少数意見が多数意見になり」と言うが、討論以前に「少数意見の方が正しいこと」がどうして判るのか。大切な事は、多数意見を実行した後の反省会を義務付けて制度化することであり、会議の議事録を公開しておくことである。

 ⑥ この事は、多数意見と少数意見の関係についてのみならず、上級機関と下級機関の関係でも言える。『文化評論』は、「上級機関の決定に下級機関は変更を求めることができる」という規約第21条を引き、「ただし、その上再決定がおりた場合は、無条件実行が義務づけられている」としているが、これも不十分である。第1に、上級と下級の意見が違った場合の共同討論のルール(例えば両者の構成員全員で討論するのか、代表者だけが話し合うのか、下級は上申書を出せるだけなのか)が明確になっていない。第2に、上級の決定を実行した後の反省会が義務付けられていない。これでは民主主義ではないのはもちろん、民主集中制でもない。

 ⑦ その上、党のすべての討論は「党の理論的基礎」である「科学的社会主義」(党規約前文)を学び直すことと結びつけてなされなければならない、と定めるべきであろう。そして、そのためには「独習指定文献」に指定されている程度の初歩的な文献は、入党以前に読んでいなければならない。これらも読まずに入党するとはどういうことなのか。そんな低級な人が「綱領と規約を認め」て何の意味があるのか。そういう水準の低い人が構成しているようでは、前衛党ではなく後衛党でしかない。

 ⑧ 共産党は、スターリンの独裁を民主集中制の必然的結果とする立花氏に対して、民主集中制が守られなかったからこそスターリンの誤りが生じたのであって、その事はかえって民主集中制の正しさを証明すると主張している。そして、「なぜスターリン時代に、そのシステム〔民主集中制〕がソ連で保障されなかったか。ここには重い歴史的、理論的な問題があり、だからこそわが党もスターリン時代についての再研究を重視している」(47頁)と書いている。

 これを見ると、現在もソ連をはじめとする自称社会主義国では民主集中制は実行されていない事実を、共産党は認めないらしい。しかし、それはともかく、致命的な点は、共産党がこの問題について「再研究を重視している」だけで、答を出せないでいるということである。そのために、共産党の「民主集中制」は、言葉としても以上の分析から分かるように、多くの欠点を持っているが、その正しい面についても、違反の防止と是正の保証が無く、単に「~しなければならない」というだけなのである。日本共産党には「当為の無力」というヘーゲルの句を知っている人はいないのだろうか。(1986年09月20日)


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