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災害と社会と人間

2014年02月11日 | サ行
             北原 糸子(歴史地震研究会・前会長)

 歴史学の主流とは言い難い「災害史」に市井の研究者として取り組み、30余年が過ぎました。災害を通して社会を見ると、いろんなことが分かります。人が災害をどう乗り越えてきたか、歴史を通じて知ることはおもしろいものです。

 災害のあり様は時代によって変化します。災害大国の日本は地震、津波、水害などが始終、起きる。現象自体は普遍的かも知れませんが、被害や救済のかたちはそれぞれ違います。社会が変化しているからです。災害は時代を映す鏡といえるかもしれません。

 大学は津田塾の英文科でしたが、60年安保に影響を受け、「英語よりも歴史、社会」と東京教育大学に学士入学し、勉強し直しました。貧困の問題に関心があったので、安政2(1855)年の安政江戸地震を題材に災害と都市の貧乏人の救済を研究し、著作「安政大地震と民衆」で賞をもらいました。長野で主婦をしていたので、賞金で大型冷蔵庫を買い、夫と子どもの料理を作り置きして東京に研究に出掛けたものです。

 生の資料を読むと、昔の人の声が聞こえてくるんです。歴史を素手でつかむ感覚に夢中になりました。

 大正12(1923)年の関東大震災は、あれぼどの大惨事なのに7年後には帝都復興祭が挙行され、驚くべき早さで立ち直っています。背景にあるのは社会の若さです。当時、東京には20、30代の若者が大勢働きにきていた。彼らは東京でやり直す意欲が強く、家族をつくり、人を増やしていきました。

 官僚たちの頑張りも目立った。明治維新以降、日本の近代化を進めていく途上で首都が一挙に燃え落ちてしまった。できたばかりの都市計画法(旧法)に基づき、都市の近代化を進めることに強いやりがいを感じていたに違いありません。

 明治29(1896)年の明治三陸大津波では「イエ」をつぶさないという強い意志が働きました。一家全滅なら係累を探し出す。夫を亡くした妻、妻を亡くした夫を妻(め)合わせ、生まれた子どもにそれぞれのイエを継がせる。社会の単位であるイエを絶やさないようにして、ムラを立て直すというしたたかさが目立ちます。

 翻って東日本大震災を眺めると、社会の弱体化が透けて見えます。高齢化や過疎化が進み、イエを立て直して地域を復興させる力が希薄になっている。これは三陸だけでなく日本に共通の問題で、大地震がはっきり顕在化させました。

 結局、災害からの救済は社会のあり方によるのです。時々の社会的条件を踏まえ、対応するしかない。東日本大震災の場合、人がいないなかでどんな社会をつくるか、まず地域の人が自ら考えないとダメでしょう。行政はそんな被災者の声を実現することに力を尽くすべきです。従来型の予算を付けて終わり、では意味がない。

 日本の災害を振り返ると、大きな災害が頻発する時期と、そうではない時期が交互にやってきます。第2次大戦から95年の阪神大震災までは大災害があまりない平穏な時期でした。その時期、高度成長期以降に原子力発電所が増えています。周期の転換点にあたるいま、原発が事故を起こしたのは象徴的です。

 原発事故は新しいタイプの災害です。自然災害が引き金でしたが、放射能の汚染拡大には人災の要素が色濃い。自然災害の場合、火山噴火のような過酷なものでも、人は長い時間をかけて、もといた場所での生活を再開します。人災である原発事故はどうでしょう? 住んでいた場所で生治の再建ができるか、正直、私には分かりません。

 この新たな災害にどう対処するか。日本人はいま、問われています。民主国家で起きた原発災害を克服する手本を、世界に示さないといけない。世界が日本を注視していることを忘れてはいけません。

 これは、社会が弱っている日本にとって、大変な作業かもしれません。ただ災害史を学んでいて思うのは、社会がどうあれ、人の本質は変わらないということです。災害で困った人がいれば、みんなで助け合う。よしんば自分の力を超えた災害に見舞われても、それを克服しようと努力する人が必ず出てくる。人ってすごいなと思い、前向きになれます。
     (2014年01月08日、朝日。聞き手・吉田貴文)
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