植物園「 槐松亭 」

バラと蘭とその他もろもろの植物に囲まれ、メダカと野鳥と甲斐犬すみれと暮らす

もはやワタシは、新聞は読みません

2019年11月25日 | 雑感
昭和30年代後半、ワタシが小学生の頃です。
親は貧乏教師、子供の目からも裕福ではありませんでした。それでも、父親は非常に謹厳実直、計画的で幼い子供を育てながら戸建てをローンで建て、庭にはヤギを飼ったりウサギを飼ったり、菜園を作ったりしていました。

子供を育てるためと、教員を退職した母親が、クラフト紙(コメ袋などに使う茶色の紙袋です)の袋から、砂糖のザラメをこそぎ落として封筒に再利用するという内職をしていたのを思い出します。ワタシらにとって、その残ったザラメが貴重なおやつでした。

物が無い時代で、子供は接ぎの当たった洋服を着て、鍋や一升瓶を下げて、食用油の量り売りや豆腐を買うことが普通の光景でした。
 ワタシは、その頃幸せでしたね。それまでは九州の田舎の温泉場の下宿暮らし、共働きの一家でしたから、朝保育園に出かけるのも一人、保育園が終わってからも、夕方まで独りボッチのことが多かったのです。お昼はヨーグルト牛乳とコッペパンでした。
 それが、いつも家には母親がおり、学校で満足な量の給食でお腹が満たされるのですから。給食が始まった時、自分で誓ったことは「給食は残さない」ということでした。空腹や粗末な食べ物の経験から、給食は全部食べようと思いました。固いたまねぎの入った酢豚や、冷たくて変な味のする春雨のあえものとか、赤魚のから揚げとか、なんでも食べるようにしました。脱脂粉乳ですら抵抗なく飲めました。おかげで、病気にもならず好き嫌いの無い食生活を送っております。

 小学生のワタシが飢えていたのは、実は活字であります。
少年漫画雑誌を買うお金などは当然ありません。友達の家で読ませてもらい、たまには古雑誌を貰ったりしました。小学校に上がって知識欲が旺盛になるころ、楽しみでもあり情報の源でもある活字をむさぼるように読みました。学校の図書館では、毎日本を借りだして読み、夏休みには移動図書館を楽しみにしていました。それでも足りず、新聞を隅から隅まで読んだのを思い出します。

 学校から帰ると、日が当たる板の間で新聞を読みました。見出しから社会面、テレビ番組、スポーツ記事などは当然ですが、小さな広告、尋ね人欄まで目を通していました。恐らく株式欄以外は全部読んでいたと思います。自分では気づかぬうちに漢字の知識や国語力が得られたのではないでしょうか。
 社会人になってからは、職業柄「日経新聞」が愛読紙となりました。法人相手の営業を長く担当していましたから、朝の通勤電車での読み齧りの知識でも大切だったのです。
 とはいえ、内容が実に味気ないもので、一般的な情報ソースとしては物足りないこともあって、40歳過ぎて、営業の一線から傍流の業務に就くころには購読を止めました。電車では新聞などは読まず、ひたすら居眠りすると決めました。

 以来、20年間、新聞紙は基本読みません。すでにスマホでは、過剰なほどの情報が入手できます。新聞とソースが大体同じなので、早くて簡潔な分スマホのニュースが有難いですね。そもそも、今時の全国紙は、省庁からの「投げ込み」と呼ばれる資料を紙面に置き換え、恐らくネットの情報を多くの取材源にしています。どの新聞も内容に大差なく、また政権におもねる記事が目につきます。野党のあら捜しや批判が主体の大新聞が大半ですよね。たまに、政府の批判記事もありますが、その舌鋒の鈍いこと!
 テレビ番組欄も、テレビを観ないものには不要、株式も興味がなく、料理・書評・趣味・地元行事・広告などを紙面からのぞいていくと、有用な記事や情報は驚くほど少なくなるのです。

 もはや、新聞はパッキングの時の詰め物、爪切りの敷紙、バーベキューの火おこししか利用価値はありません。いまだに、家内は購読契約を継続しているようですが、そのまま段ボールに直行いたしております。
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