植物園「 槐松亭 」

バラと蘭とその他もろもろの植物に囲まれ、メダカと野鳥と甲斐犬すみれと暮らす

沖縄の風が吹く丘に

2019年11月01日 | 時事
ワタシが、40歳前後はよく旅をいたしました。
沖縄も多い時は年2回訪ねました。知人が石垣島に住んでおりましたから、飛行場から出ると、迎えに来てくれて、自宅に荷物だけおいてそのまま砂浜に向かいました。
当時、石垣島は内地(地元の人はそう呼びます)から直接の航空便が無く、費用も割高になるので観光客が割合少なかったのです。ほとんど無人の砂浜に降り3日間は海に入り、シャコガイを取ったり魚の餌付けをしたり、砂浜でバーべキューと、夢のような旅でした。

その仲間達で、たまに沖縄本島にも足を運びました。石垣島ばかりでは能が無いね、と。中城村の中村家を訪ね、美ら海水族館でジンベイザメを眺め、国際通りの市場で選んだ魚介類を2階で調理してもらって食事をするなどの定番コースを辿りましたね。

そのコースでも最も多くの観光客が足を運ぶのが首里城であります。那覇市の中心にある小高い山の頂上に建つ宮城で、眼下に市街地が一望できます。だらだら坂を上ると守礼門が迎えてくれます。これをくぐると次に古びた外観の歓会門があり、厳かで赤い社が特徴的な瑞泉門、漏刻門と続きます。ここまでは無料(笑)
中に入ると正殿が正面にあり広々とした前庭があります。ここで、琉球王朝時代荘厳な儀式や催しが行われていたのだろうと想像させるにふさわしいたたずまいでありますね。日本建築と中国文化が融和したような独特の様式で、瓦や壁も朱色に統一されておりました。

ワタシは、琉球舞踊を見たくてパイプ椅子に座って演舞を眺めていました。その緩やかな踊りと三線の音色、そしてほほを撫でていく爽やかな風に、おもわず転寝したのを思い出します。

 昔、3,4の王族がそれぞれ沖縄の中で覇権を争っていたのですが、統一されて琉球王朝が形成されました。その後、鹿児島藩からの要求で無血開城以来、受難の歴史が始まったと言えましょう。
例えば日露戦争、この時多くの沖縄の人々が戦地に駆り出され戦死者も多数出しました。北の果ての領土や権益を争った戦争に、差別をうけていた最南端の琉球の人が徴兵されたのです。
 それから太平洋戦争。日本で唯一市街戦に巻き込まれ、軍役・民間合わせて19万人もの犠牲を出しました。この時、グスクといわれる城址に役所を移したがために爆撃の標的となり貴重な資料が焼失したのです。
 以降も、アメリカによる統治、返還後の米軍基地問題など、次々に沖縄の人たちは苦しみを味わい続けております。

そして昨日、首里城焼失のニュースを目にいたしました。なんということでしょうか。
首里城は、太平洋戦争でほぼ全壊、焼失し、戦後、曲折の末の復元・建築が30年に渡って行われ、やっと今年終結したばかりなのです。もともとの設計図や資料が失われていたためその復元は困難を極めたといいます。

200億円以上かけて再建した国の宝が、一日にして正に灰燼に帰すことになりました。出火の原因はどうであれ、巨額を投じた木造建築物が容易く全焼するというのは、管理・防火体制の不備と言わざるを得ません。沖縄県のみならず有力な観光資源を失った損失は計り知れません。

なんくるないさー、そう言って指笛と三線でうたい踊る沖縄の人たちの心根が、救いと言えば救いでしょうか。いつの日か、また沖縄の丘に、首里城が再建され、宮城に熱く心地よい風が吹き渡るのを願ってやみません。




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