批判すべきはチーム作りか? それとも采配か?
サッカー日本代表の森保監督を批判する意見にふれるたび、「何か違うなぁ」と違和感を覚えてきた。
その違和感とはいったい何かがわかった。サッカージャーナリスト、清水英斗氏の記事『森保一監督は、いつ「無能の仮面」を外すのか。巷に渦巻く“監督解任論“の是非を問う』を読んだのがきっかけだ。
私と同じように森保監督を論評しているように見えて、その実、批判者によって議論の前提や土台が違うのである。
その違いとはいったい何か? それは試合に至るまでの過程、つまりチーム作りの段階における指導力の欠如を問う趣旨なのか? それとも試合の最中の指示や用兵術など指揮ぶりを問う意図なのか? の違いだ。このどちらを批判するのかで、まったく議論の次元が変わってくる。
チーム作りの過程に問題がある
僭越ながら私の例を出せば、私はほぼ一貫して前者、つまりチーム作りの段階における指導力を問題にしている。一例として、森保監督はふだんからゲームモデルやプレー原則をおそらく選手に仕込んでない点だ。
これは試合を見ればよくわかる。例えば、いつカウンタープレスをするのか? いつハイプレスをするのか? 等にふだんの指導は如実にあらわれる。
森保ジャパンでは南野と中島、堂安ら「三銃士」が揃って試合に出ていた頃、および最近ではカメルーン戦のように大迫と南野が同時に試合に出ているときには、カウンタープレスやハイプレスを行う。
一方、彼らが試合に出てないときには行わない。
明らかに試合に出る選手が自分たちの個人的な判断で声をかけ合い、「やるのか? やるならこうやろう」などと選手が自主的に決めているフシがある。
ふだんの戦術の仕込みが試合を変える
だがカウンタープレスやハイプレスは1人でやるプレイじゃない。個々の判断では無理がある。ふだんの練習時から監督がカウンタープレスやハイプレスをゲームモデルやプレー原則として設定し、選手に日頃から指導徹底しておく必要がある。
しかし森保監督はこうしたふだんの仕込みをやっていない可能性がある。ゆえに私はそれを問題にしているのだ。
たとえば前線でボールを失ったとき、その場で足を止めずにカウンタープレスを行いボールの即時奪回をめざすのか? それともミドルサードまでリトリートして相手を待ち受けるゾーンディフェンスをするのか? は大きな違いだ。
また敵の最終ラインからのビルドアップに対し、ハイプレスをかけマンツーマンでハメに行くのか? それともミドルプレスで敵を待ち受け、FWが縦パスのコースを切ってボールをサイドに追い込みサイドでボール奪取を図るのか? この違いは大きい。
こうした戦術もふだんから森保監督が約束事として仕込んでおくべきだ。
こんなふうに私の場合は一貫してチーム作りの段階における指導力の欠如を問うている。これができてないなら、そもそも森保氏が監督である意味がないからだ。
森保監督はメキシコのシステム変更に対応した?
一方、清水英斗氏は記事『森保一監督は、いつ「無能の仮面」を外すのか。巷に渦巻く“監督解任論“の是非を問う』のなかで、2020年11月に行われたメキシコとの国際親善試合にふれている。このなかでメキシコが後半からシステム変更したことに関連し、清水氏は以下のように書く。
「日本優勢の前半が終わった後、メキシコはシステムを4-3-3から4-2-3-1に変更し、戦術を修正した。それに対し、森保監督が交代カードを切ったのは、後半に入った57分。鈴木武蔵と柴崎岳に代え、南野拓実と橋本拳人を投入した。
珍しく、動きが早い。風向きの変化を感じた。(中略)森保監督は10分も経たないうちに交代を話し合い、動きを見せた。珍しい。その必然性があるとすれば、やはりメキシコが戦術を変えてきたことだ」
清水氏は、森保監督が行った選手交代はメキシコのシステム変更に対する対抗策だとしている。つまり私が上の方で「後者」としてあげた「試合の最中における指示や用兵術といった采配」を問題にしている。
私が「チーム作りの段階における指導力の欠如を問うている」のとは議論がまったく食い違っているのだ。なるほど同じように「森保批判」をテーマにしていても、人によって着眼点が大きくちがうのである。
これで冒頭に書いた「森保批判論に対する違和感」の正体が分かった。
森保監督のふだんのチーム作りを批判しようとしているのか? それとも試合中の采配についての批判なのか? そんな大きなスレ違いがあるのだ。
森保監督は機械的にシナリオを実行しただけだ
だが問題はそれだけではない。一点だけ、清水英斗氏の記事にツッコミを入れておこう。メキシコ戦で森保監督が行った選手交代の意味は、清水氏の分析と私の見立てでは180度違う。
後半に鈴木武蔵と柴崎岳に代えて南野拓実と橋本拳人を投入したのは、同じFWである武蔵と南野、同じセントラルMFである柴崎と橋本を交代させることにより、森保監督の頭の中にある「控え組とレギュラー候補」を対比させ、選手を比較検討しながら試合で見てチェックするためだったと私は推測している。すなわち「テスト」だ。
つまり(1)あの選手交代はメキシコのシステム変更に対する臨機応変な対応策などではないーーというのが一点。
もう一点は、(2)おそらく森保監督は試合前からあの選手交代を事前に考えてあった。それを計画通り実行しただけではないか? という点だ。私はそう考えている。後半にスペースがないなか、わざわざスペースがあってこそ生きる浅野を途中投入したのも、あらかじめ考えてあったシナリオだったからだと思う。
つまり森保監督は、試合の流れに臨機応変に対応して選手交代を行ったのではない。ただ単に、事前に考えてあった交代策を機械的に実行しただけではないか?
もし私のこの分析が正しければ、「森保監督はメキシコのシステム変更に対し素早く選手交代して対策を講じた」という清水氏の論述は根底から無意味なものになる。
こんなふうに監督の指導力や用兵術とひとことで言っても、人によって解釈もちがえば着眼点もちがう。となれば議論を整理して生産的なものにするためには、各自のスタンスをまず明らかにするのがいいと思う。
例えば、(1)森保監督のふだんのチーム作りにおける指導力の欠如を問おうとしているのか? あるいは(2)試合の最中にリアルタイムで行う指示や用兵術などの采配を問う主旨なのか? それを記事の冒頭にでも明記しておく。そうすれば議論のスレ違いも起こらず、生産的な意見交換が行えるだろう。
◼️追記
清水氏の記事に触発されてメキシコ戦を再度振り返ったが、森保監督は(事前に考えてあった采配にしろ)勇気を持ってよく橋本と浅野を途中投入したと思う(結果はともかくあのテストは試す価値があった。なお南野投入に「勇気」はいらない)。それにしても後半からバイタルエリアにフタをした敵将の修正力を強く思い知らされたゲームだった。
【関連記事】
【森保批判を整理する2】選手の「テスト」だったメキシコ戦
サッカー日本代表の森保監督を批判する意見にふれるたび、「何か違うなぁ」と違和感を覚えてきた。
その違和感とはいったい何かがわかった。サッカージャーナリスト、清水英斗氏の記事『森保一監督は、いつ「無能の仮面」を外すのか。巷に渦巻く“監督解任論“の是非を問う』を読んだのがきっかけだ。
私と同じように森保監督を論評しているように見えて、その実、批判者によって議論の前提や土台が違うのである。
その違いとはいったい何か? それは試合に至るまでの過程、つまりチーム作りの段階における指導力の欠如を問う趣旨なのか? それとも試合の最中の指示や用兵術など指揮ぶりを問う意図なのか? の違いだ。このどちらを批判するのかで、まったく議論の次元が変わってくる。
チーム作りの過程に問題がある
僭越ながら私の例を出せば、私はほぼ一貫して前者、つまりチーム作りの段階における指導力を問題にしている。一例として、森保監督はふだんからゲームモデルやプレー原則をおそらく選手に仕込んでない点だ。
これは試合を見ればよくわかる。例えば、いつカウンタープレスをするのか? いつハイプレスをするのか? 等にふだんの指導は如実にあらわれる。
森保ジャパンでは南野と中島、堂安ら「三銃士」が揃って試合に出ていた頃、および最近ではカメルーン戦のように大迫と南野が同時に試合に出ているときには、カウンタープレスやハイプレスを行う。
一方、彼らが試合に出てないときには行わない。
明らかに試合に出る選手が自分たちの個人的な判断で声をかけ合い、「やるのか? やるならこうやろう」などと選手が自主的に決めているフシがある。
ふだんの戦術の仕込みが試合を変える
だがカウンタープレスやハイプレスは1人でやるプレイじゃない。個々の判断では無理がある。ふだんの練習時から監督がカウンタープレスやハイプレスをゲームモデルやプレー原則として設定し、選手に日頃から指導徹底しておく必要がある。
しかし森保監督はこうしたふだんの仕込みをやっていない可能性がある。ゆえに私はそれを問題にしているのだ。
たとえば前線でボールを失ったとき、その場で足を止めずにカウンタープレスを行いボールの即時奪回をめざすのか? それともミドルサードまでリトリートして相手を待ち受けるゾーンディフェンスをするのか? は大きな違いだ。
また敵の最終ラインからのビルドアップに対し、ハイプレスをかけマンツーマンでハメに行くのか? それともミドルプレスで敵を待ち受け、FWが縦パスのコースを切ってボールをサイドに追い込みサイドでボール奪取を図るのか? この違いは大きい。
こうした戦術もふだんから森保監督が約束事として仕込んでおくべきだ。
こんなふうに私の場合は一貫してチーム作りの段階における指導力の欠如を問うている。これができてないなら、そもそも森保氏が監督である意味がないからだ。
森保監督はメキシコのシステム変更に対応した?
一方、清水英斗氏は記事『森保一監督は、いつ「無能の仮面」を外すのか。巷に渦巻く“監督解任論“の是非を問う』のなかで、2020年11月に行われたメキシコとの国際親善試合にふれている。このなかでメキシコが後半からシステム変更したことに関連し、清水氏は以下のように書く。
「日本優勢の前半が終わった後、メキシコはシステムを4-3-3から4-2-3-1に変更し、戦術を修正した。それに対し、森保監督が交代カードを切ったのは、後半に入った57分。鈴木武蔵と柴崎岳に代え、南野拓実と橋本拳人を投入した。
珍しく、動きが早い。風向きの変化を感じた。(中略)森保監督は10分も経たないうちに交代を話し合い、動きを見せた。珍しい。その必然性があるとすれば、やはりメキシコが戦術を変えてきたことだ」
清水氏は、森保監督が行った選手交代はメキシコのシステム変更に対する対抗策だとしている。つまり私が上の方で「後者」としてあげた「試合の最中における指示や用兵術といった采配」を問題にしている。
私が「チーム作りの段階における指導力の欠如を問うている」のとは議論がまったく食い違っているのだ。なるほど同じように「森保批判」をテーマにしていても、人によって着眼点が大きくちがうのである。
これで冒頭に書いた「森保批判論に対する違和感」の正体が分かった。
森保監督のふだんのチーム作りを批判しようとしているのか? それとも試合中の采配についての批判なのか? そんな大きなスレ違いがあるのだ。
森保監督は機械的にシナリオを実行しただけだ
だが問題はそれだけではない。一点だけ、清水英斗氏の記事にツッコミを入れておこう。メキシコ戦で森保監督が行った選手交代の意味は、清水氏の分析と私の見立てでは180度違う。
後半に鈴木武蔵と柴崎岳に代えて南野拓実と橋本拳人を投入したのは、同じFWである武蔵と南野、同じセントラルMFである柴崎と橋本を交代させることにより、森保監督の頭の中にある「控え組とレギュラー候補」を対比させ、選手を比較検討しながら試合で見てチェックするためだったと私は推測している。すなわち「テスト」だ。
つまり(1)あの選手交代はメキシコのシステム変更に対する臨機応変な対応策などではないーーというのが一点。
もう一点は、(2)おそらく森保監督は試合前からあの選手交代を事前に考えてあった。それを計画通り実行しただけではないか? という点だ。私はそう考えている。後半にスペースがないなか、わざわざスペースがあってこそ生きる浅野を途中投入したのも、あらかじめ考えてあったシナリオだったからだと思う。
つまり森保監督は、試合の流れに臨機応変に対応して選手交代を行ったのではない。ただ単に、事前に考えてあった交代策を機械的に実行しただけではないか?
もし私のこの分析が正しければ、「森保監督はメキシコのシステム変更に対し素早く選手交代して対策を講じた」という清水氏の論述は根底から無意味なものになる。
こんなふうに監督の指導力や用兵術とひとことで言っても、人によって解釈もちがえば着眼点もちがう。となれば議論を整理して生産的なものにするためには、各自のスタンスをまず明らかにするのがいいと思う。
例えば、(1)森保監督のふだんのチーム作りにおける指導力の欠如を問おうとしているのか? あるいは(2)試合の最中にリアルタイムで行う指示や用兵術などの采配を問う主旨なのか? それを記事の冒頭にでも明記しておく。そうすれば議論のスレ違いも起こらず、生産的な意見交換が行えるだろう。
◼️追記
清水氏の記事に触発されてメキシコ戦を再度振り返ったが、森保監督は(事前に考えてあった采配にしろ)勇気を持ってよく橋本と浅野を途中投入したと思う(結果はともかくあのテストは試す価値があった。なお南野投入に「勇気」はいらない)。それにしても後半からバイタルエリアにフタをした敵将の修正力を強く思い知らされたゲームだった。
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