goo blog サービス終了のお知らせ 

世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

シリーズ⑨:サンカローク陶器博物館:その5

2016-11-03 08:31:10 | 博物館・タイ
<続き>

●シーサッチャナーライ陶

いきなり展示品以外の噺で恐縮である。タイ・シャム湾に浮かぶラン・クェン島沖の沈船調査の結果、モン陶の盤が出土した。これを年代測定した結果13世紀初頭と判明したとのことである。従って12世紀の中ごろから終わりにかけて、既にモン窯は開窯していたと想像できる。            
今日、シーサッチャナーライ陶磁と呼ばれる、一群の施釉陶磁は13世紀中頃であろうと云われている。それらは版築窯の発展型ないしは煉瓦構築の横焔式単室窯で、いずれも地上式であった。昇焔壁で燃焼室と焼成室が区画され、従来にも増して高温焼成が容易になったであろうと想定される。その焚口と燃焼室の大きさは、窯全長の四分の一を占めるほどになったのである。       
そのことについて、サンカローク陶器博物館では、パネルを用いて説明している。少し横道に反れるが、そのことについて紹介しておく。
上段左から窖窯で地下式、発掘調査の結果最下層から出土したもので、大きさは3mから6mと云われている。
上段右が版築窯で地下式ないしは半地下式で、厚さ10cmほどの粘土層とのことであるが、築窯方法は複数説あるとのこと。61号窯が代表的な窯と云われているが、長さ6m幅2-3mの大きさが一般的である。これらの窯はバン・コノーイの南端に多く、無釉焼締め陶を供出する。前々回に紹介したが、61号窯の写真を再掲しておく。
中段が版築窯の発展形で地上式、シーサッチャナーライでは36号窯が該当する。
下段が煉瓦窯で地上式、高火度焼成のために発展した最終形で、大きな焚口と高い障焔壁を持っている。バン・コノーイでは北に位置する窯が該当する。

噺を展示されているシーサッチャナーライ陶磁に移す。



シーサッチャナーライでも動物肖形は、多くのものが焼成された。これ以外に人物肖形も存在する。
現地の煉瓦構築窯の前に立つと、ひとつの完成形との印象を持つ。そのような窯であれば、還元焼成のための制御ができ、龍泉や景徳鎮に比肩できる翠色の青磁焼成が、可能であったろうと納得できる。





次回は、シーサッチャナーライのバン・パヤン窯の陶磁を紹介する。当該窯はバン・コノーイと旧城の間のパヤン村に在り、建築用材や屋根飾り、守護神やナーガなどを焼成していたと云われている。




                                 <続く>

シリーズ⑨:サンカローク陶器博物館:その4

2016-11-02 08:30:46 | 博物館・タイ
<続き>

●モン陶

バン・コーノイの北端の発掘調査の際、その最下層から出土した陶磁を、モン陶と呼んでいる。今回は、展示されていたモン陶を紹介する。
ここで、お詫びと云うか、訂正しておきたいことが2件ある。1件目は、過去バン・コーノイから出土するモン陶と同時に、そこをモン窯と当該ブログに記してきたが、正しくは陶磁のみ出土し、窯址は発見されていないようである(その後の発掘調査結果が気になるが・・・)。
2件目は、バン・コーノイの呼称である。バン・コーノイと記している書籍の初出は、何か詳細を知らないが、小学館発刊の「世界陶磁全集巻16・南海」のPage197に記載されており、これがバン・コーノイと呼ぶのに一役かっていると思われる。このコーノイの呼称に、多少疑問があったので調べてみた。タイ文字でบัานเกาะน้อยと記す。これをカタカナ表記すると、バン・コノーイとなる。関千里氏はその著作「東南アジアの古美術」で、バン・コノーイと表記されており、卓見である。従って今後、バン・コーノイ改めバン・コノーイと表記する。
横道に反れてしまった。当該陶器博物館で展示されていた、モン陶を以下紹介する。
クメール陶を思わせるような黒褐釉の陶磁も存在している。これをどのように診ればよいのであろうか?
この青磁鉢も先の黒褐釉壺同様に、釉薬の表面が油で弾いたような斑文を見せる。モン陶の特徴の一つである。

モン陶には写真のような刻花文も存在し、かつ口縁が輪花のように刻まれている盤も多々存在する。

モン陶に黒褐釉の肖形物も存在するが、ガルーダであろうか、その塼(タイル)も存在するようで初見である。
左隅の3点の壺や瓶を見ていると、素人にはクメール陶との見分けがつかない。次回から本場であるシーサッチャナーライ陶磁を紹介する。



                                  <続く>

シリーズ⑨:サンカローク陶器博物館:その3

2016-11-01 15:23:55 | 博物館・タイ
<続き>

写真のような焼締め陶が展示されている。これがシーサッチャナーライで、最も古そうである。従ってそれに触れたのち、施釉陶磁を紹介したいと考えている。
(貼花垂飾帯文焼締壺)
灰黒色や灰色の素地をもつ無釉の焼締め陶が、シーサッチャナーライの生産地や住居跡から出土している。この無釉の焼締め陶が、シーサッチャナーライでは最も古いであろうと、云われている。
上写真の貼花垂飾帯文焼締壺は、サンカローク(サワンカローク)陶器博物館の展示品である。シーサッチャナーライの焼締め陶は、一般的に幅広の胴をもち、肩が広くてほぼ平坦で、胴は先細になって平底である。そして筒状の頸の先端はラッパのように開いている。
これと同類と云えそうなスパンブリーのバン・バンプーン窯で焼成された印花象文焼締大壺が、シーサッチャナーライで出土している。その代表的な事例が福岡市美術館の本多コレクションである。本多コレクションの蔵品目録番号234がそれで、年代は14世紀としている。
この類似性をどのように判断すれば良いのであろうか?時代的にはシーサッチャナーライのほうが古そうである。・・・これについては、別途、考察結果を紹介する予定である。
やや横道にそれたので、話を引き戻す。これらの無釉陶は、ワット・チャーンロムの東の旧城内や、バン・コーノイで焼造されたと云われている。特にバン・コーノイでは、高さと幅がそれぞれ1mに及ぶ、焼締めの貯蔵用大壺が焼成された。
バン・コーノイに在るシーサッチャナーライ61番窯博物館で、その実態を知ることができる。以下、61番窯博物館の最下層の窯址、次に焼成されていた大壺の写真を、順次掲載する。
(61番窯博物館)
口縁がラッパ状に開いた壺が、窯址から出土したようで、大型の壺も出土したと思われる。その大型の壺が次の写真である。
(61番窯博物館)
これらのことに直接触れてはいないが、シーサッチャナーライで最も古い古代から中世の都市国家であった、チャリエンについてサンカローク博物館がボードで解説している。

チャリエンと題して以下のように解説されている。ワット・プラ・シー・ラタナー・マハータート、ワット・チョム・チェン、ワット・チャオ・チャンについて1933-1994年の考古学的発掘調査により、そこからはスコータイ王国前期の3-11世紀の遺物が出土した。そこはチャリエンと呼ばれ、ヨム川渓谷の一つの文化的センターであったと云われている。このセンターというか集落について、11世紀とするタイ及び中国側文献に、シーサッチャナーライと呼ぶ地域の古代都市としている。この都市は”ヨーノック年代記”でチャリエンと呼ばれ、それは宋代にChaeng-Lungと呼ばれていた。
シーサッチャナーライの最下層から出土する陶磁は、粗い質感で釉薬の掛りは、不均一であった。
最後の一節は、所謂モン(Mon)陶を云っているのかとも思われるが、無釉焼締陶の自然釉を云っているのか?
いずれにしても、無釉焼締め陶の始まりは、11世紀頃と認識されており(世界陶磁全集巻16南海Page200)、当該陶器博物館の上記解説と齟齬はない。
以上字面ばかり記して恐縮でした。以下、僅かに展示されていた、無釉焼締め陶を紹介して終わりとする。
次回は、所謂モン(Mon)陶を紹介したいと考えている。




                                  <続く>