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古代鏡展示館で考えた『卑弥呼の鏡』

2022-09-21 13:19:01 | 古代日本

我が田舎・山陰を直撃した台風14号。さぞ大型で被害甚大になろうと思いきや、最大瞬間風速は25mにも満たず、降水量も100mmにもならず、拍子抜けなるもラッキーであった。

以下の記述は、古代鏡展示館に於いて沢山の古代鏡を見て、西川寿勝・大阪府教育庁文化財保護課主査の著書『三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡』を参考にしながら考えた事どもである。

日本での出土鏡のうち、三角縁神獣鏡とならんで中国で発見例がない舶載鏡として、画文帯同向式神獣鏡①斜縁二神二獣鏡②、「上方作」銘半肉彫四獣鏡、飛禽鏡がある。これらの鏡が、すべて発見されている地域が存在する。それは、平壌付近で旧楽浪郡に相当する。しかし、それらが楽浪郡で作られたとの証はない。

画文帯同向式神獣鏡① 出典:文化遺産オンライン

斜縁二神二獣鏡② 出典:e国宝

飛禽鏡③ 出典:東京国立博物館

弥生時代中期前半(紀元前1世紀)に、朝鮮半島系の銅鏡である多鈕細文鏡④が倭国に伝播する。これは中国の戦国時代式鏡をモデルに半島の工人が創出し、朝鮮半島で銅鏡と共に石製鋳型も出土しており、漢式鏡(中国鏡)グループに属さない異端の鏡である。その鏡が舶載された。

多鈕細文鏡④ 出典:文化遺産オンライン

この多鈕細文鏡④と入れ替わるように、北部九州に漢式鏡の舶載がはじまる。それは楽浪郡が設置された紀元前108年以降のことである。その鏡の大半が異体字銘帯鏡⑤と、半島南部と北部九州で鋳造された異体字銘体鏡の倣製鏡であった。

異体字銘帯鏡⑤ 古代鏡展示館

舶載鏡の年代別の流れを追っているが、続く時代の弥生時代中期(紀元前1世紀~紀元後1世紀中頃)には、星雲鏡、草葉文鏡などがあるものの、前漢後期(紀元前1世紀~紀元後1世紀)の異体字銘帯鏡⑤方格規矩鏡⑥が舶載された。

方格規矩鏡⑥ 出典:Wikipedia

次の弥生時代後期(1世紀中頃~3世紀中頃)は、後漢前期(1世紀~2世紀)に相当するが、その時期の舶載鏡は数少ない。その時期は前漢式鏡が姿を消し、王莽期~後漢前期の方格規矩鏡⑥連弧文鏡⑦内行花文鏡⑧が主となる。当時の中国では龍虎鏡や半肉彫獣帯鏡が流通していたが、これらは舶載されなかった。古墳時代(3世紀後半以降)に至ると、三角縁神獣鏡⑨が全国の古墳から出土する。

連弧文鏡⑦ 飯塚市歴史資料館にて

内行花文鏡⑧ 出典:Wikipedia

三角縁神獣鏡⑨・景初三年銘 県立古代出雲歴史博物館にて

その三角縁神獣鏡⑨は卑弥呼の鏡とも云われている。魏帝から卑弥呼に下賜された「銅鏡百枚」が、それだと云う。それは、三角縁神獣鏡⑨に魏の紀年銘鏡(景初三年、正始元年銘)があり、下賜された年代に重なること、更に『伝世鏡論』(後述)が、その根拠とされている。この三角縁神獣鏡⑨が、本当に魏帝からの下賜鏡に相当するであろうか。

「魏志倭人伝」では、卑弥呼の遣使は景初二年(238年)六月と記す。しかし、これは景初三年説が一般的である。

「梁書海南諸国東夷西北諸戎列伝によると『至魏景初三年公孫淵後卑弥呼始遣使朝貢』とある。つまり景初二年六月は、まだ公孫淵は存命で、卑弥呼の遣使行路は塞がれており、その遣使は公孫淵誅滅後の景初三年というのが、ほぼ定説化している。」

大阪府安満宮山古墳からは、画文帯同向式神獣鏡①斜縁二神二獣鏡という楽浪郡製と考えられる銅鏡と「青龍三年」(235年)銘復古鏡、そして三角縁神獣鏡⑨が同時に出土した。

三角縁神獣鏡の創出期の形式である三角縁同向式神獣鏡⑩(注・1)は「景初三年」、「正始元年」などの紀年を銘帯に刻んでいる。この三角縁同向式神獣鏡⑩画文帯同向式神獣鏡の主文様は共通している。

三角縁同向式神獣鏡⑩ 出典:e国宝

ここで注目すべきは、三角縁同向式神獣鏡⑩画文帯同向式神獣鏡①の主文様が共通している点と、三角縁(同向式)神獣鏡⑩画文帯同向式神獣鏡斜縁二神二獣鏡は、中国での出土が皆無である点である。

そして、これらの銅鏡が出土するのは、倭である日本列島と平壌(旧楽浪郡)である。その旧楽浪郡からは、前漢後期の異体字銘帯鏡⑤、後漢前期の連弧文鏡⑦方格規矩鏡⑥、後漢中期以降の画文帯同向式神獣鏡①斜縁二神二獣鏡②飛禽鏡③が出土し、これらは中国で発見されていない。つまり倭である日本列島から出土する銅鏡は、旧楽浪郡から出土する銅鏡と同じである。但し三角縁(同向式)神獣鏡は旧楽浪郡からは出土しない。しかし三角縁(同向式)神獣鏡と、日本列島と旧楽浪郡から出土する画文帯同向式神獣鏡①の主文様が共通していることは先述の通りである。

以上の背景から考えられることは、画文帯同向式神獣鏡①斜縁二神二獣鏡②飛禽鏡は、楽浪郡で創出され、後漢後期から三国時代頃にかけて製作された鏡であろう。これらの胴鏡は、中国に逆流することなく、楽浪郡から半島南部を経由して日本列島に運ばれたものと考えられる。要約すれば、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての遺跡から出土する舶載鏡は、中国で鋳造された鏡ではなく、楽浪郡製であった。313年の楽浪郡、314年の帯方郡の滅亡は鋳鏡活動と鏡工人の転機になったであろう。敢えて言及するなら幾人かの工人が、倭地に渡来した可能性も考えられる。

このように考えると、卑弥呼の三角縁神獣鏡は、楽浪鏡工人が鋳造した可能性が高い。だが、当該説の弱点は、三角縁神獣鏡⑨が旧楽浪郡から一面も発見されていない点にある。その他の画文帯同向式神獣鏡①斜縁二神二獣鏡②飛禽鏡③は、旧楽浪郡から出土している。この不思議をどのように解釈するのか。

西川寿勝氏は、卑弥呼が賜った『銅鏡百枚』は三角縁神獣鏡⑨で、それは楽浪郡で鋳造されたものと想定しておられる。このような想定を可能たらしめる条件は、なぜ楽浪郡の鏡工人が三角縁神獣鏡⑨に関与できたのかを、明らかにすることである。

魏の太祖・曹操は、後漢最後の皇帝・献帝らに鏡を贈っており、卑弥呼だけが魏帝から銅鏡を賜った訳ではなかった。曹操が贈った鏡は、『金錯鏡』と云う宝飾鏡であった。

合わせて卑弥呼が賜った配付用の銅鏡は、宝飾鏡の図案を見本にして、別の工人が創出したものと西川寿勝氏は考えている。三角縁神獣鏡⑨が独自の文様をもち、中国で一枚も発見されない理由がそこにあると云う。

それは、三角縁神獣鏡⑨が配置する神像と怪獣に、配置の規則性がなく、内区の割り付けに合わせ、ほぼ同じ形で二像から九像の神像と怪獣が適当に組み合わせられる。怪獣は図像を左右反転する相似形もある。これは他の神獣鏡類が黄帝・東王父・西王母・龍虎(天鹿・辟邪 てんろく・へきじゃ)などを区別して、対称配置する規則を無視しており、本来の図像にある神仙思想を理解しないものであり、古典を理解する中国の工人の手によるものとは考えられない。

以上のように、三角縁神獣鏡⑨は楽浪鏡と共通する特徴を有しており、邪馬台国から朝貢する際の前進基地である帯方郡と兄弟関係にある楽浪郡地域で、三角縁神獣鏡⑨が鋳造されたであろうと考えられる。

このように西川寿勝氏は、三角縁神獣鏡⑨⑫楽浪郡説を唱えられている。それを補強する傍証が存在する。いわゆる笠松文様である。その文様の初出は、旧楽浪郡に属する安岳3号墓の古墳壁画と思われる。墓室西側の人物(冬寿)の右側に、その笠松文様が描かれている。三角縁神獣鏡⑨⑫の内区の神像や獣形のモデルとなった中国の画文帯同向式神獣鏡①の画像には、この笠松形図形は存在しない。このことを西川寿勝氏は触れておられないが、西川氏の楽浪鏡説に関する傍証になるものであろう。

三角縁神獣鏡⑫ 笠松文様 天理市立黒塚古墳展示館にて

楽浪郡安岳3号墓 人物(冬寿)に向かって右側に笠松文様

ここで下賜された銅鏡百枚であるが、先述のように、その大部分は三角縁神獣鏡⑨と考えられる(この論拠は考古学的に証明できず・後述)が、それらは配付鏡であり、真の卑弥呼の鏡は鍍金対置式神獣鏡⑪のような宝飾鏡であったと思われる。

鍍金対置式神獣鏡⑪ 古代鏡展示館にて

ところで、三角縁神獣鏡⑨の製作地は、鉛同位体比によって産地論争が展開されている。それらの説を総合すると、弥生時代に製作された銅剣、銅鐸などの国産青銅器は、朝鮮半島か中国北部の原料が、三角縁神獣鏡⑨を含む舶載鏡は、中国各地の原料が用いられており、古墳時代の倣製鏡も中国の原料であると分析されている。倭国で鋳造された銅鏡は、スクラップを混合して鋳造されており、同位体比も変化し、これをもって製作地を論ずるのは無理なようである。実際、三角縁神獣鏡の同范鏡にも分析比のバラツキがある。

尚、三角縁神獣鏡国産説を唱えた人々として、森浩一、松本清張、古田武彦、奥野正男の各氏が、中国の王仲勝氏は呉からの亡命工人によって我が国で鋳造されたとの説を発表しておられる。

ここで、銅鏡百枚の大半が、本当に三角縁神獣鏡⑨であるや否や、検証してみたい。

卑弥呼が女王であった弥生時代後期の遺跡や墳墓から、三角縁神獣鏡⑨は一枚も出土せず、百年ほど後の古墳からしか出土しない。しかし、この三角縁神獣鏡⑨が魏帝から賜った銅鏡百枚だと容認されている。その根拠が『伝世鏡論』である。この仮説は、卑弥呼が賜ったものの、それらは配付を受けた権力者の墳墓に副葬されることはなく、彼らの宝器として伝世され、古墳時代に入りその必要性がなくなってから副葬された・・・との説である。

このような説は、事実とは申しがたく、解釈論の一つであろう。糸島平野の平原方形墓を筆頭にして多くの首長墓から、方格規矩鏡⑥内行花文鏡⑧などの後漢式鏡が出土する。決して伝世された銅鏡では無い。三角縁神獣鏡⑨が卑弥呼が賜った銅鏡とすれば、この魏鏡のみが伝世したとすることに、大きな違和感を覚える

『倭国大乱』は後漢書によれば「恒霊の間」(146~189年)と記されており、その後に卑弥呼は共立されて王となった。このように考えると、卑弥呼が賜ったのは、三角縁神獣鏡⑨という出所不明(先述の西川寿勝氏の論は存在するものの、考古学的に証明不能)の魏鏡ではなく、後漢式鏡の可能性が高い。

・・・と云うことで『銅鏡百枚』は、その多くが証明不能なるも、やはり三角縁神獣鏡⑨と考えているが、これは考古学的に証明できていない。しかし鍍金された鍍金対置式神獣鏡⑪は、後漢式鏡であり、ほぼ確実に卑弥呼の鏡の一部であろう。

今回、卑弥呼の鏡として西川寿勝氏の説を流用して種々記してきた。その論点は・・・、

1)三角縁神獣鏡⑨は、卑弥呼に下賜された銅鏡百枚で、それらは楽浪鏡であった

西川寿勝氏は記さないが・・・、

2)三角縁神獣鏡⑨の出所は証明不能であり、下賜された鏡は後漢式鏡の可能性も考えられる

更に個人的に考えたことは、卑弥呼の鏡の一部は・・・、

3)鍍金された宝飾鏡であり、それが本当の『卑弥呼の鏡』で、肌身離さず日常用いられ、三角縁神獣鏡は周辺首長の配付用であった

以上、加西市の古代鏡展示館の展示品を見て考えたことどもである。今回記した話題は、永遠の謎となるか、将来動かしがたい証拠が出現するのか?

(注・1)三角縁同向式神獣鏡:同向式とは、内区の四つの神像と四つの獣形が縦位置に同じ向きで配置されているものを云う。

<了>

 

 



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