<続き>
元締めの居宅へ戻り、最近の発掘の様子を写真で説明してもらった。場所の発見方法は先述の通りで、目印といえば生活痕である。つまり陶磁の破片を時間をかけて探しだし、発掘する方法である。写真を見ると地表の穴の径は1.5m程度であるが、掘り進むにつれ内径は大きくなっている。その深さ1-1.5m程で陶磁に突き当たると云う。それらの陶磁とともに、他に何が出土したか質問すると、鉄銹でボロボロになった断片とか、骨と思われるものとのことであった。
貴石・宝石の装飾品の類などはどうか、と重ねて質問すると、それはないと言う。結局、正確な記録などはなにもなく、その先に話がすすまないことは、過去の調査報告と同様である。記憶をたどりながら説明を受けるが、前記の通り記憶のみで信憑性については、判断できない。先に説明した発掘現場・7箇所の、掘削当時の写真とのことである。それによると7箇所で写真の発掘品を回収したという。それは比較的大型の壷が3点、蓋付小壷1点にミニュチュアのような壷1点、大径の盤が4点、中径盤が3点、碗が2点に小皿が1点で、合計14点であったとのこと。当然破損した陶磁も多かったが、その詳細は覚えていないとのことである。これでは考古学上の研究は何も出来ない。現実がこれと云えばこれである。
これらの壷と盤は、写真から判別は難しい点があるが、サンカンペーンの壷と盤が確認でき、翠色に発色している盤はシーサッチャナーライで、スコータイは確認できないがどうであろうか。タノン・トンチャイ山脈の北端・オムコイでの出土陶磁は、スコータイ地域の焼物比率が低下し、ランナー陶磁の比率が増加するのがセオリーであるが、今回の写真とその説明は、セオリーに準じている。
更に詳しい説明を聞きたかったが、なにせ時間がない、仮に時間の余裕があったとしても、記録のない記憶だけであり、チェンマイに戻ることにした。その帰り姿をみて、来年の雨季に来いと言う。なぜ雨季かと尋ねると、雨季には農作業がない。従って人々は発掘を始めるとの説明である。しかし雨季は道が赤土でスリップし易く、車はだめで徒歩になり、野宿を含めて3日間の行程だと云う。・・・今回のように発掘現場の痕跡ではなく、実際の発掘現場は見たいが、その行程は大変な困難が予測され、研究者でもない者にとっては遠慮したいとの想いが残った。
今回の事例のみで即断はできないが、過去のターク・メーソト周辺の墳墓からの出土品と、今回のオムコイ地区バン・メーテンの墳墓の出土品と、明らかに違いがある。先の墳墓から出土する内容は、埋葬主が比較的豊かであったろうと思われることである。一方バン・メーテンでは、装飾品の出土を見ないとの話しである。埋葬地を含めて、これらのことから想定されるのは、ターク・メーソト周辺の埋葬主は交易で栄え、豊かであったろうことが、バン・メーテンは山中で、ひっそりとした生活であったろうと思われる。その一方でターク・メーソトの埋葬者とバン・メーテンの埋葬者の民族が異なることも考えられる。これらの相互関係をもっと学問的に追及して欲しいと感ずる・・・若い日本人学者の出現を切に願っている。
また、バン・メーテンに暮らした中世の人々、彼らがシーサッチャナーライやサンカンペーン陶磁を入手するほどの原資は何であったろうか。森林由来の産物で、平地に暮らす人々に魅力があるのは、何であろうか。よく喧伝されるのは蘇木などの染料等々が、語られるのが一般的である。そのほかにも何かありはしないか・・・と、山勘であるが考える。
道中と発掘現場も松林である。当然日本の黒松や赤松と種類が異なり、松葉が長い松・・・知識がなにもないので、仮に雲南松としておく、ここから松茸の収穫もあったのではないか?更にそれを食材とする習慣はあったのか?
素人の山勘ではどうしょうもないので、現地周辺の森林由来の産物を現地探査した、総合的な報告書を見たいものである。
最後に訪れた、過去の発掘現場の位置を参考に紹介しておく。
チェンマイよりもミャンマー国境が遥かに近く、深い山奥であることが理解頂けると考える。
ブログ掲載1000回記念として、北タイ陶磁特集を10テーマにわたって紹介してきたが、これをもって終了とする。
<了>
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