<続き>
最寄りの食堂で昼食にしたが、その食堂を見回すと、写真の発掘された大壷が、でんと構えているのが目にはいってきた。ほかに二つのビルマの大壷に花が活けてあり、なんだかこれから、期待がもてそうである。
Ban Mea Tenは長閑であった。食事中マイクで大きな声が聞こえる、聞くとすぐ近くに学校(Mea Ten Witthaya School)があり、午前中の学習終了時の何かを喋っているらしい。それ以外は静かなもので、車はほとんど通らない。メー・テン川の対岸を見ると1900m級の峰々が屹立している。これらの峰は隣のターク(Tak)県との県境をなしている。対岸に稲穂の田園と民家が散在し、その背後は峰々、手前と対岸の川岸にある竹林の光景は、田舎の田園風景そのもので、時の経過とは無縁の景色であった。
今回発掘場所に案内してくれるM氏の自宅を訪れた。そこで、発掘品が保管してある棚を見ると、写真の口縁が割れたサンカンペーンの壷と、写真のビルマ・錫鉛釉緑彩の小形盤、それにサンカンペーンの無文盤(所謂犬の餌鉢)が二つで、これは近隣で発掘されたものである。
そこでM氏に種々質問した。先ず第一は発掘現場を見たい、それが無理であるなら発掘現場の写真が見たいとの質問である。現在の発掘現場は山道を50km行ったミャンマーとの国境に近いところにあると云う。とても本日中にチェンマイには戻れませんよと・・・。
では近くにはないかと重ねて尋ねると、15km先に旧発掘現場があり、3-4年前に発掘したところだという。徒歩かとの質問に対し、そこへは山道を四駆で行けるという。今回、当地訪問の目的は発掘現場を現認することにある。行かない手はないが、所用時間が気になる。まあ15kmだから、いくら山道とはいえ30分程度であろうと、たかをくくったのが、大間違いであった。
早速四駆で、学校の先を右折して山中に分け入った。5分も走ったであろうか、写真のゲートをくぐる。
これはモン(Hmong)族(タイ人は蔑称としてメオ族という、古代から中世にかけタイ中部や北部のハリプンチャイ王国を建国したモン(MON)族とは異なる)の村と外部を区別する結界である。そこから先が最大の難所で雨季にできた車の轍が深く、その轍からはずれると崖下へ転落である。おまけに山の稜線を走るものだから、両側は崖である。50分が経過して目的地に到着した。帰りのこともあるので、短時間で周囲の様子を確認した。
現地は尾根なのだが、比較的広い場所で、写真の左手のように、道からは1m程高くなり、土質は赤土である。そこで確認できたのは、7つの掘削址が直径1m~1.5mほどで、窪地になっている。さらにその場所を特定する何かがあるとの考えより、注視してみるが、樹木を見る以外、例えば目印の石なり岩等を見ない。また小高く盛り上っている訳でもなく、かつ環濠らしきものもない。
(写真の窪地が掘削穴址)
目印なしで何故そこが墳墓跡とわかるのかと、M氏に質問する。彼によるとそこは、陶磁器の破片が落ちていた場所で、その散乱具合で目星を着け、掘削するとの回答であった。この場所はBan Khuriang(モン族集落)の手前1kmのところで、村人が足しげく移動する場所であり、かつ牛を放し飼い(放牧ではない、そのような人工の牧草地は存在せず)にしている場所で、村人は何度も訪れており、それらの村人が破片を見つけたと言う。
するとここの発掘場所は何なのか、当然埋葬地なのだが、ここで大いなる疑問が沸々と浮かんできた。現在の発掘現場はこの先15kmのモン族集落(Ban Meo Toi)から、まだ20km以上先で車も入らない所だという。地図でみるとそこはミャンマーとの国境の山中である。なぜこんな人跡未踏のような山中に埋葬地があるのか?
タイ西部の山岳地帯、例えばターク市街地の西側から、タイ・ビルマ国境のメーソトにかけて、かつて大量の発掘陶磁が出現した。これは曰く、タイとビルマの中世交易路に沿ったもので、それらの周辺に住まう人々の集落であったろうと、思われる場所に墳墓が設けられた・・・との説が唱えられ、それに少なからず同意していたが、今回の発掘跡地は交易ルートでも何でもなく、1000mはゆうに越える高地である。先述の如くここから35km先のミャンマー国境が現在の発掘地で、とても中世の交易路などではない。考えられるのは、雲南や北ベトナムから移動したタイ族の墳墓、と想定するには無理がありそうだ。ここは山の民、それがどのような民族なのか、ラワ族等のあてはあるにしても、それを特定して記述するまで絞り込めない・・・大きな謎、宿題として残った。以上の事柄を確認しながら帰途についた。麓の彼の自宅に戻ったのは午後2時20分になっていた。車のメーターで距離を正確に測定すると12km入った地点であった。
<続く>
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