まったく無縁の話をこじつけているようで申し訳なく思っている。先ず、次の写真を見ていただきたい。
これは江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町江田の前方後円墳)から出土した5-6世紀初頭の銀錯銘大刀である。大刀の刀身の平地には片面に花と馬、もう片面に魚と鳥が銀象嵌で表され、75字の銘文は棟の部分に表されている。それは台(治)天下獲□□□鹵大王・・・以下略・・・と象嵌されている。
ワカタケル大王は、雄略天皇に比定されている。埼玉県行田市稲荷山古墳からも「ワカタケル大王」の銘文が象嵌された大刀が出土しており、関東から九州まで大和王権の支配が及んでいたことになる。
ここで、以下の写真を御覧願いたい。下の2点は何れもパヤオの印花文様である。左は西方(中東)の影響を受けたと思われる獅子、右が馬文様である。我田引水するわけではないが、どことなく似ている。特に似ているのは魚の文様である。これについては、http://www.geocities.jp/goldeneggfamily4/を御覧願いたい。
大刀の馬の象嵌を観ると、前後の太腿に渦巻きの模様が入っている、これを翼とみてペガサスだと云う人もいれば、単なるコブにしか見えないと云う人もいる。
古来獅子や麒麟の大腿部には、このような渦巻きと共に火焔で、装飾されている。つまり天空を駆ける天馬であろうか。
鳥と魚についてである。鳥の嘴は下に曲がっている。これをもって鵜が魚を追っていると説く人がいる。
鵜飼いは古く、「日本書紀」神武天皇の条に「梁を作って魚を取る者有り、天皇これを問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と、鵜養部のことがみえると云う。
一方、中国の「隋書」開皇二十年(600年)の条に、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法として『以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭(小さな輪を鳥にかけ日に100匹は魚を捕る)』と記されているという。
これらの話は、6世紀初頭の大刀の象嵌文様と時代的に合致するが、鵜飼の様子を象嵌するとは考えにくい。やはり家門繁栄とか子孫繁栄など、吉祥文で飾るのが必然と思われる。そうすると魚の卵は数多く、多産でひいては子孫や家門繁栄の象徴である。
後世、景行天皇は能煩野に日本武尊を祀る、白鳥陵を築いたとされている。古代人は、白鳥を人間の魂を運ぶ神聖な鳥とみていた。
白鳥と聞けば、頭に浮かぶのはハンサ(Hamsa Hansha)で、ヒンズー教に伝わる神鳥である。白鳥ないしは白い鵞鳥の姿をしており、ブラフマー神の乗り物とされている。東南アジア古陶磁の装飾文様としてしばしば顔を出す。特にミャンマーの錫鉛釉緑彩陶や、カロンの釉下彩鉄絵の文様としては、ポピュラーである。
次の写真を見ていただきたい、これはカロンの鉄絵玉壺春瓶で、代表的な姿と図柄である。この魚と鳥の図柄をもって、これは鵜飼だとは云えないであろう。当然ながら時代背景や場所が異なるが、銀錯大刀とカロンの玉壺春瓶文様の底流には、同じような考え方が流れているのではないか。つまり、家門繁栄や子孫繁栄を表し、魂は天馬となって天国へ・・・との思いであったのではないか。
このように見てくると、古代の日本人と東南アジアの古代の人々の繋がりを感じざるを得ない。
<参考文献>
Wikipedia:江田船山古墳
地図で読む「古事記」「日本書紀」:武光誠 PHP文庫
Wikipedia:鵜飼の起源
Blog.goo.ne.jp/isaq2011 倭人が来た道
これは江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町江田の前方後円墳)から出土した5-6世紀初頭の銀錯銘大刀である。大刀の刀身の平地には片面に花と馬、もう片面に魚と鳥が銀象嵌で表され、75字の銘文は棟の部分に表されている。それは台(治)天下獲□□□鹵大王・・・以下略・・・と象嵌されている。
ワカタケル大王は、雄略天皇に比定されている。埼玉県行田市稲荷山古墳からも「ワカタケル大王」の銘文が象嵌された大刀が出土しており、関東から九州まで大和王権の支配が及んでいたことになる。
ここで、以下の写真を御覧願いたい。下の2点は何れもパヤオの印花文様である。左は西方(中東)の影響を受けたと思われる獅子、右が馬文様である。我田引水するわけではないが、どことなく似ている。特に似ているのは魚の文様である。これについては、http://www.geocities.jp/goldeneggfamily4/を御覧願いたい。
大刀の馬の象嵌を観ると、前後の太腿に渦巻きの模様が入っている、これを翼とみてペガサスだと云う人もいれば、単なるコブにしか見えないと云う人もいる。
古来獅子や麒麟の大腿部には、このような渦巻きと共に火焔で、装飾されている。つまり天空を駆ける天馬であろうか。
鳥と魚についてである。鳥の嘴は下に曲がっている。これをもって鵜が魚を追っていると説く人がいる。
鵜飼いは古く、「日本書紀」神武天皇の条に「梁を作って魚を取る者有り、天皇これを問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と、鵜養部のことがみえると云う。
一方、中国の「隋書」開皇二十年(600年)の条に、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法として『以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭(小さな輪を鳥にかけ日に100匹は魚を捕る)』と記されているという。
これらの話は、6世紀初頭の大刀の象嵌文様と時代的に合致するが、鵜飼の様子を象嵌するとは考えにくい。やはり家門繁栄とか子孫繁栄など、吉祥文で飾るのが必然と思われる。そうすると魚の卵は数多く、多産でひいては子孫や家門繁栄の象徴である。
後世、景行天皇は能煩野に日本武尊を祀る、白鳥陵を築いたとされている。古代人は、白鳥を人間の魂を運ぶ神聖な鳥とみていた。
白鳥と聞けば、頭に浮かぶのはハンサ(Hamsa Hansha)で、ヒンズー教に伝わる神鳥である。白鳥ないしは白い鵞鳥の姿をしており、ブラフマー神の乗り物とされている。東南アジア古陶磁の装飾文様としてしばしば顔を出す。特にミャンマーの錫鉛釉緑彩陶や、カロンの釉下彩鉄絵の文様としては、ポピュラーである。
次の写真を見ていただきたい、これはカロンの鉄絵玉壺春瓶で、代表的な姿と図柄である。この魚と鳥の図柄をもって、これは鵜飼だとは云えないであろう。当然ながら時代背景や場所が異なるが、銀錯大刀とカロンの玉壺春瓶文様の底流には、同じような考え方が流れているのではないか。つまり、家門繁栄や子孫繁栄を表し、魂は天馬となって天国へ・・・との思いであったのではないか。
このように見てくると、古代の日本人と東南アジアの古代の人々の繋がりを感じざるを得ない。
<参考文献>
Wikipedia:江田船山古墳
地図で読む「古事記」「日本書紀」:武光誠 PHP文庫
Wikipedia:鵜飼の起源
Blog.goo.ne.jp/isaq2011 倭人が来た道