世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

県立出雲古代歴史博物館#1:雲太和二京三

2016-05-20 08:47:27 | 博物館・島根県

県立出雲古代歴史博物館は、地元に在りながら行く機会がない、過日2年振りに行ってみた、以降数回に渡り紹介したい。
平安時代の古書「口遊(くちずさみ)」に、雲太和二京三とある。当時(10世紀)の建物の大きさを謡ったものであるが、雲太とは出雲大社本殿、以下東大寺大仏殿、平安京大極殿と続く。平安時代の出雲大社本殿は16丈(48.48m)で、東大寺大仏殿の15丈を凌いでおり、上古には32丈もあったという。

 

この模型は、1989年大林組プロジェクトチーム発表の復元案を模型にしたもので、縮尺は1/10である。

出雲国造家には金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)が伝世してきた。これを世に明らかにしたのは本居宣長であるが、このように大仏殿をも凌ぐ建物が、出雲の僻地に存在するはずがないとされてきたが、平成12年ー13年にかけて、出雲大社境内遺跡からスギの大木3本を1組にし、直径が 約3mにもなる巨大な柱が3カ所で発見された。中央は、棟をささえる柱 すなわち棟持柱(むなもちばしら)で、古くから宇豆柱(うづばしら)と呼ばれてきたものが出土したのである。
これにより、巨大本殿が存在していたこと、すなわち上記大林組の復元模型にある本殿が、立証されたのである。

上古は、この模型を上回る高さ90mにも及ぶ本殿であったという。やや常軌を逸しているが、荒唐無稽とも思われない。

写真は、鳥取県米子市・稲吉角田遺跡出土土器に刻まれた絵画で、高殿が描かれている。4本柱と梯子ないしは階段が描かれ、その高さは常軌を逸している。
この高殿や上古の出雲大社本殿は、縄文人の仕業であろうか? 青森の三内丸山は縄文の巨木遺跡である。弥生土器の高殿、上古の出雲大社本殿、山内丸山の縄文巨木遺跡の底流には、何がしら繋がるものがありそうだ。
そのように考えると、出雲国造家は縄文人の末裔であろうか? 渡来人(弥生人)の代表である大和王権、大国主命は国譲りの際に「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿を建て籠ることになる。縄文人の末裔国家が滅び、証としての巨大建築物を残したのであろう。・・・との空想が、まんざらでもないような気分にさせてくれる、展示物群であった。




                                 <続き>







最新の画像もっと見る

コメントを投稿