世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

渦巻き文は古代のオリエンタル・スタンダードだった

2022-02-24 08:42:12 | 古代と中世

過去、『サマキー村のマナウ柱』(ココ参照)として、カチン族の祭壇について一文を掲載した。その写真を再掲する。

垂直に立つ柱が6本存在するが、左から1本目、4本目、6本目の文様は渦巻き文である。渦巻き文の意味合いは、悪霊を避ける辟邪文と云われている。

東洋の東の果て日本列島でも縄文の古くから、この手の文様が存在する。先ずは縄文土器文様である。

(注口土器 茨城県椎塚貝塚出土 縄文後期 渦巻き文が

視認できる)

(島根県雲南市加茂岩倉銅鐸 弥生時代 銅鐸中央に四頭渦巻き文をみる)

縄文時代・弥生時代の人々は、万物に霊が宿る考え自然と共に生活してきた。悪霊を避けるには、精霊信仰が欠かせなかった。当時の人々は、身の回りの品々に辟邪文を描いたのである。それは、古墳時代を経て奈良時代まで継続していた痕跡がある。

(平城宮跡出土の隼人の盾・8世紀前半・復元品)

隼人の盾は双頭渦巻き文である。戦闘の場において、敵の槍や刀で死傷しないように辟邪の文様を描いたものと思われる。勝手な想像乍らこの種のことが転じて『呪い(まじない)』になったものと思われる。

古代日本の渦巻き文は、カチン族のそれと同様に、辟邪文であったことがわかる。漢族がどうであったのか調べていないが、漢族の周辺が渦巻き文を辟邪文様としているからには、古代の漢族もそうであったろうと想像できる。

西欧や中東はどうであったか知る由もないが、少なくとも東洋では、渦巻き文は辟邪の意味をもつ標準文様であったと思われる。驚くべきことは貴州・雲南や東南アジア北部には、今日も辟邪の文様として現実世界にいきていることである。日本の古代は、彼の地の山岳民族・少数民族の現実世界である。若き研究者のフィールドワークに期待したい。

<了>



最新の画像もっと見る

コメントを投稿