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近衛龍春著『武士道・鍋島直茂』を読んで

2022-11-13 08:08:52 | 日記

ブロガーDr.Koimariさんの近衛龍春氏の書籍記事に触発され、読み漁るというほどの事でもないが、ここのところ暇があれば目をとおしてる。先日、首記タイトルの書籍を読了したので読後感を記事にしてみた。やや長文であるので流し読みでもしていただければ・・・と、考えている。

近衛龍春氏の著作を読んでいつも感じることであるが、巻末の参考文献欄をみると、ゆうに200冊以上が記載されている。とてもできることではない。そして史書か思われるほど史実の記載が続く、まさに戦記物のようだが、いつしか引き込まれる不思議な文体で、それなりのファンが存在するであろう。以下、それの要約である。

天文7年(1538)、鍋島清房の次男として生まれる。母は竜造寺家純の娘・華渓。天文10年(1541)、主君・竜造寺家兼の命令により、小城郡の千葉胤面(たねつら:西千葉氏)の養子となる。しかし天文14年(1545)に小弐氏によって龍造寺家純らが殺され、家兼が逃亡したことにより、龍造寺氏と少弐氏が敵対関係になると、実父・清房は直茂の養子縁組を解消して実家に戻らせている。家兼の死後、数年を経て竜造寺隆信が龍造寺氏を継いだ。

(龍造寺隆信:Wikipediaより)

天文20年(1551)9月1日、周防の陶隆房(晴賢:すえたかふさ:はるたか)が主君の大内義隆を自刃させ大内家の当主には、大友宗麟の弟の義長を迎えることで同家を掌握した。龍造寺隆信は大内氏と誼(よしみ)を通じていたが、隆信は後ろ盾を失い、苦難の時代に入る。そのとき物語の主人公である鍋島直茂は、彦法師丸と名のり十四歳であった。そこから物語はスタートする。

彦法師丸は梅林院なる寺院に一時出家するが、還俗して孫四郎信昌(のぶまさ)として隆信に仕えることになった。その後、隆信の生母である慶誾尼(けいぎんに)が父・清房の継室となったため、孫四郎信昌(直茂)は隆信の従弟であると同時に義弟にもなり、隆信から厚い信任を受けることとなる。龍造寺氏は孫四郎信昌の働きなどもあって、宿敵の少弐氏を永禄2年(1559)には滅亡に追いやっている。この頃から龍造寺隆信の右腕として活躍する。

永禄12年(1569)、大友宗麟が侵攻して来ると、隆信に籠城を進言し、同時に安芸毛利氏に大友領への侵攻を要請した。元亀元年(1570)の今山の戦いでは、家中が籠城に傾く中で夜襲を進言し、夜襲隊を指揮して大友親貞を撃破する。以降、龍造寺家内での存在感を大いに増した。また、この勝利を記念して、鍋島家の家紋を剣花菱から大友家の杏葉へと替えた。

天正3年(1575)、少弐氏の残党を全て滅ぼし、天正6年(1578)には肥前南部の有馬氏・大村氏らを屈服させるという功績を挙げた。そして隆信が隠居して隆信の嫡男・龍造寺鎮賢(後の政家)が家督を継ぐと、政家の後見人を隆信より任された。

天正9年(1581)に隆信と謀り、島津氏と通謀した筑後柳川城主の蒲池鎮漣(かまちしげなみ)を肥前へ誘い出して誅戮し、隆信の命令で柳川城攻めをした田尻鑑種(たじり あきたね)を督戦、蒲池氏(下蒲池)が滅んだ後に柳川城に入った。以後、主に筑後国の国政を担当する。もちろん孫四郎信昌の力への期待もあったが、奢った隆信が度々諫言を行う孫四郎信昌を疎んじるようになり、筑後に回したとも言われる。天正10年(1582)龍造寺隆信の嫡子・鎮が政家に改名したことに伴い、孫四郎信昌も信生(のぶなり)と改名した。この時点で龍造寺隆信は、五州二島の太守となった。

龍造寺隆信は、更に版図を拡大すべく島原に出陣する。天正12年(1584)、世に名高い沖田畷の戦いで隆信が島津・有馬連合軍に敗れ戦死すると、鍋島信生(のぶなり)は自害しようとしたが家臣に止められて肥前に退き、政家を輔弼して勢力挽回に務めた。島津・有馬方は、隆信の首の返還を申し出てきたが、鍋島信生(のぶなり・後の直茂)は受け取りを断固拒否し、強烈な敵対を示した。この行動の後に講和交渉に入ったため、龍造寺氏側は惨敗にも関わらずよりよい条件を得ることができた。

龍造寺氏は一時島津氏に恭順する形で大友方の立花宗茂が籠もる立花城包囲に加わったが、直茂は早くから豊臣秀吉に誼を通じ九州征伐を促した。そして、秀吉軍の九州接近を知ると直ちに島津と手切れし精兵を送って、島津軍によって肥後の南関に囚われていた立花宗茂の母親と妹を救出、龍造寺勢は立花勢とともに島津攻めの先陣を担って島津氏を屈服させた。

(鍋島直茂 Wikipediaより)

これら一連の動きを秀吉は高く評価し、龍造寺政家は、秀吉から肥前7郡30万9902石を安堵されたが、朱印状は龍造寺高房宛となっている。鍋島直茂はうち3万石余(直茂・勝茂(直茂嫡子)の合計高4万4500石)を与えられ秀吉は直茂に対し龍造寺政家に代わって国政を担うよう命じた。ここに実質的に龍造寺家を鍋島直茂が取り仕切ることになった。

秀吉からは天正16年(1588)に政家に対し、天正17年(1589)には直茂と嫡子の勝茂に、豊臣姓が下賜された。直茂は、天正16年から龍造寺領国内における支配権を誇示するかのように印章の使用を開始し、自己の権力を確立させた。

朝鮮出兵においては龍造寺家臣団を率い、加藤清正を主将とする日本軍二番隊の武将として参加した。この朝鮮出兵を経て、龍造寺家臣団の直茂への傾倒が一層促進された。この時点で政家との不和が噂されるようになっており、文禄4年(1596)には政家毒殺を企図しているとさえ噂され、直茂は噂を否定する起請文を提出している。この朝鮮出兵において、直茂は一度も帰国することはなく、慶長2年(1597)になってから子息の勝茂と交代で日本に帰国した。

以下、余談で当該ブロガーが勝手に付け加える。清王国を実質的に建国したヌルハチが文禄の役(壬申倭乱)に際し、秀吉軍の侵略を受けた朝鮮の為に、援軍を送る用意があると、朝鮮の『宣祖実録』宣祖29年(1596)2月の条に以下のように記されている。“壬申年間、朝鮮は倭奴に侵さる。吾は兵をひきいて馳せて救わんとす。明朝の石尚書に稟報(ひんぽう:目上の人・機関)せしも、回答を見ず。故に相援くるをえざりき”と。

(ヌルハチ Wikipediaより)

タラ話である。もしヌルハチが満州八旗を率い、壬申倭乱に参戦していたら、加藤清正が半島奥深く遼東まで攻め上ることはできなかったであろう。以上タラ話であった。

 話しは、関ケ原へとすすむ。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、息子の勝茂が当初西軍に参戦したが、直茂は銀子500貫をもって3人の家臣らに米を買い付け(兵糧5万石)させた。そして石田三成が挙兵すると、西軍に属しながら宇都宮にいた徳川秀忠に対して尾張から関東までの買い占め米の目録を送り、徳川家康にも「鍋島心中は別条なし」との心証をいだかせたとされる。関ヶ原での本戦が開始される以前に勝茂とその軍勢を戦線から離脱させている。

その後直茂は、家康への恭順の意を示すために九州の西軍諸将の居城を攻撃することを求められ、小早川秀包の久留米城を攻略、次いで立花宗茂の柳川城を降伏開城(これは直茂の柳川城包囲というより、加藤清正の開場勧告による)させた。更に直茂は、他の東軍諸将と共に島津への攻撃まで準備したが、こちらは直前に中止となった。

一連の九州での鍋島氏の戦いは家康に認められ、龍造寺家の肥前国佐賀の本領は辛うじて安堵されている。ただし家中の戦後処理では、勝茂の直轄領は9000石とし、また名代の軍勢が家康から直々に労いの言葉を得た龍造寺(後藤)茂綱には、勝茂を超す12108石の大領を与えるなど、徳川と東軍参加の家中諸将への配慮をしている。

 江戸時代に入り、龍造寺高房は幕府に対して佐賀藩における龍造寺氏の実権の回復をはたらきかけた。しかし、幕府は直茂・勝茂父子の龍造寺氏から禅譲を認める姿勢をとり、隆信の弟・龍造寺信周や龍造寺長信らも鍋島氏への禅譲を積極的に支持した。このため、勝茂は幕府公認の下で跡を継いで、龍造寺家の遺領(検地による高直しで35万7千石)を引き継ぎ佐賀藩主となり、父の後見下で藩政を総覧した。

ただ、直茂は龍造寺氏・家中への遠慮があったためか、自らは藩主の座に就くことはなく初代藩主は勝茂となった。そのため直茂は藩祖と称される。元和4年(1618年)6月3日に病死。享年81歳。既に家康は鬼籍に入っている。直茂は関ケ原に勝利したと思ったのか、そうでは無いのか?

そこで書名の『武士道』である。龍造寺隆信は肥前を統一するため、多くの国人衆と戦ったが、過去謀反した国人衆に対しては誅戮するにおよび、疑心暗鬼を引き起こし、薩摩に敗れると反旗を翻す国人衆の多さで証明される。それに対して直茂は寛容であった。慶長6年伏見城に登城し、家康と目見えた際は、“武士道とは云ふは死ぬ事と見つけたり”・・・と申したと云う。直茂は版図拡大に当たり、隆信のように降伏したものを誅滅するのではなく、許して臣下に加えたように、意味のない戦いを避けた。このような言動・行動訓が『葉隠』として伝えられた。

思えば、現代社会にも龍造寺隆信形人間、鍋島直茂形人間が存在する。行動パターンは戦国も現代も同じであろうか。長文を御覧頂きありがとうございました。

<了>