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〇倭国と高句麗の戦い
騎馬民族の日本列島への渡来について、前回までは主として江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説に関連して、考古学的遺物をみてきたが、ここでは史実かどうか、吟味は必要であるものの好太王碑文や、石上神宮の七支刀などの金石文、三国遺事などの史書から騎馬民族の渡来に迫ってみる。
朝鮮半島は4世紀に入ると、高句麗が楽浪郡や帯方郡を滅ぼし、勢力を拡大した。半島南部では政治的結合が行われ、百済と新羅が成立する。一方、弁韓は統一されないまま伽耶諸国として、小国が分立していた。鉄資源に恵まれていたため、経済的に豊かであり統一する必要がなかった。
(4世紀後半の倭国と朝鮮半島 出典・歴史道Vol.12)
このように朝鮮半島は、高句麗の拡大戦略と、半島南部で勢力を伸長した百済との間で、抗争が激化するのは必然であった。この頃の倭国であるが、3世紀後半、大和の纏向に初期の倭王権の宮殿が出現した。当時の倭国では、製鉄が既に始まっていたとも考えられるが、需要を満たすには程遠かったと思われ、伽耶諸国の鉄に頼らざるを得ず、結果として朝鮮半島と関りを持つようになった。
367年、百済が倭国と同盟を結ぶため使者3名を派遣してきた。327年には、百済から七支刀が贈られた。その背景は、高句麗と百済との対立が深刻化したことにある。369年に百済は、兵2万を率いた高句麗の故国原王に攻められている。高句麗の南下圧力に対抗するため、百済は倭国と同盟しようとしたのである。この申し込みに倭国は応じた。倭国にとって伽耶諸国の鉄資源確保が重要であったことによる。391年、高句麗では好太王が即位し、国土拡張から新羅を属国化し、さらに百済への侵攻をおこなった。その間のことは好太王碑文に刻まれている。
その後の戦いも好太王碑文が示している。396年、高句麗は百済の18城を落とす。百済は一層、倭国を頼ることになる。399年、百済は倭国の支援を受けることになった。ついに倭国は大規模な派兵を行うことになる。“倭が百済・新羅国境に満ちた”と好太王碑文は記す。400年、高句麗は歩騎5万で新羅を救い、新羅城に満ちていた倭国軍を退け、404年には百済北部の旧・帯方郡に侵入した倭国軍を撃破し、倭は高句麗に敗れた。敗因は高句麗の騎馬軍団に対し、倭国軍の装備は劣り、騎馬軍団を要するには至っていなかったことによる。
当時(4世紀半ば)の倭国軍は、百済から渡来した扶余族(騎馬民族およびその末裔)により、鉄による武器・武具化は進んだものの、高句麗に対抗するための馬や馬具が十分でなかったことによる。
(短甲:金海国立博物館にて)
(短甲:黒姫山古墳出土)
古墳出土の考古遺物は、倭国と高句麗が戦火を交える頃から、武器・武具が出現するのは、上述の騎馬民族を祖にもつ扶余族の列島渡来の、背景があったことによる。
<続く>