古代史好きには、関裕二氏の著作は何度か目を通されたと思う。小生も数冊は保有し、図書館などで目にすれば読んでいる。過日、『消えた出雲と継体天皇の謎』なる著作を数年振りに読み返した。中味は既に忘却の彼方にあったが、首記タイトルの一文に目がとまった。
そう長くは無いので概要を示す。
”纏向に出現した纏向型前方後円墳は、北部九州の沿岸地帯にすばやく広まっているが、筑後川の南岸には届いていない。山門県(やまとのあがた)は、邪馬台国北部九州説の有力候補地であるが、このヤマトの最新埋葬文化を拒否した地域である。
そこで考えられることは、急速に出雲と吉備が発展し、ヤマトに纏向遺跡が完成したことによって、それまで鉄器を独占していた北部九州の諸勢力は、ヤマトになびくものと、ヒミコを仰いでヤマトに対抗すうるものに分かれた。そして高良山①という天然の要害に守られた筑後川の南岸の山門県の人々は、魏に朝貢し親魏倭王の金印を受け取り、虎の威を借りようとしたことだろう。これが魏志倭人伝に云う邪馬台国である。
(卑弥呼像・大阪府立弥生文化博物館にて)
ところが、ヒミコの目論見は、裏目に出たようだ。というのも、畿内のヤマトから遣わされた女傑の活躍によって、ヒミコは滅ぼされていた可能性が高いからだ。その女傑こそ日本書紀に登場する神功皇后であり、魏志倭人伝にいうところの、『卑弥呼の宗女・台与(とよ)』ではないかと考えられる。”・・・以上である。
ここで時代がハッキリしているのは、卑弥呼が景初三年に魏に遣使したことが魏志倭人伝に記されている。景初三年は西暦239年に相当する。神功皇后は第14代・仲哀天皇の后である。仲哀天皇は実在が云々されているが、実在するとして4世紀後半とするのが一般的である。宗女・台与は卑弥呼から女王を引き継いだので、時代的には3世紀半ばに相当し、台与と神功皇后の時代には100年以上のギャップが存在する。
時に、卑弥呼は神功皇后との説も垣間見るが、神功皇后は台与でその台与に卑弥呼は殺されたとの説は、よく言えば関氏のクリエーティブな論説ともとれるが、如何せん時期的に合致しない。尚、邪馬台国山門県説には賛成である。
注)①高良山:福岡県久留米市 山中に高良大社が鎮座している
<了>