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世界の街角

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騎馬民族は遣って来たのか、来なかったのか(1)

2019-08-24 06:38:56 | 古代と中世

できる限り多くの写真を用いたいと考えているが、暫くは字面が多く恐縮である。

弥生時代のことどもについては興味津々で、古墳時代についてはあまり興味を持たない性癖である。しかしながら騎馬民族云々については、江上波夫氏の騎馬民族説の影響か?大いに興味を持っている。岡山・造山古墳をみて江上波夫氏の『騎馬民族征服王朝説』をレビューする気分になった。

氏は以下のように述べる。東北アジア等の騎馬遊牧民族の国々、扶余、高句麗、百済の系統を引く王侯貴族が『任那(伽耶、加羅)』に遣って来た。この任那の都に辰王朝があり、崇神天皇は騎馬民族軍団を率いて北部九州に遣って来た。そこで扶余、韓、倭連合の『日本国』をつくる。これが北部九州の筑紫の人々の勢力を加えて、応神天皇の時に東へ進み大阪平野へ進出して、ここで日本列島の統一をめざして国名を『倭国』とした。そして応神以降の倭の五王で征服を成し遂げ、雄略天皇の前後に大和朝廷が始まったとしている。

氏は戦後の比較的早い段階でこの説を発表したが、今日では否定されている。個人的には崇神天皇云々については首を傾げるが、東アジア的で壮大なロマンを感じ、文化勲章に値すると考えている。

江上波夫氏は、前期古墳から後期古墳へ墓制が突如転換するのは、騎馬民族が異なる墓制を持ち込んだとする。3世紀末から4世紀後半にかけての前期古墳は、盛土の上から下に向かって長方形の穴を掘って、石を積んで壁をつくり木棺をおさめて天井に石を被せ、その上に土を被せる竪穴式石室である。その墓の副葬品は、宝器とか権威を象徴する威信財や呪術的なもので、鏡・剣・玉で作った腕輪などである。これを氏は、弥生時代以来の農耕民的な特徴だとする。

下に掲げる写真は、みよし風土記の丘ミュージアム展示の前期古墳出土品である。

この写真のみ兵庫県立考古博物館展示の朝来市向山2号墳の発掘された竪穴式石室を示す。以降再びみよし風土記の丘ミュージアムの展示品に戻る。

なるほど江上波夫氏の説のように威信財を目にすることができる。三角縁神獣鏡などは弥生の墳墓から出土するが、氏の説のようにそれを踏襲しているようだ。

今回はここまでとして、氏の説を引き続き検証してみたいと考えている。

 

<続く>