goo blog サービス終了のお知らせ 

世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

東アジアの墳墓と古代吉備王国

2019-08-23 10:41:17 | 古代と中世

岡山市の造山古墳は全長約350mと如何にも巨大である。築造された古墳時代には、南東5kmの位置に海岸が存在した。平野部であるこの辺りを沖積したのは、高梁川が運んだ土砂による。高梁川は古代には、その流路は造山古墳のすぐ北を東流し、やがて南流して先述の海岸へと達していた。つまり川舟で容易にアプローチできた。

上に掲げた写真は、岡山県古代吉備文化財センターに掲げられていた航空写真である。実際墳頂に登ってみた。見晴らしがよい。前方部の荒神社前には、阿蘇山系の凝灰岩で作られた刳抜石棺が置かれていた。

阿蘇山系とは良く分からないが、古墳時代の随分大型化した準構造船で運ばれてきたであろうか。首長の権力の大きさが想像される。この古墳は5世紀後半(古墳時代中期)の築造とされている。

大陸の文化・文物が朝鮮半島経由で列島にもたらされた最盛期は、5世紀の古墳時代中期である。この時期、地域の首長や倭の大王等の権力者たちの墳墓が列島各地に築かれた。それは日本列島のみならず、朝鮮半島各地も同様であった。

(金海・首露王陵 4世紀後半 現地にて)

(慶州皇南大塚 5世紀 ウキペディア)

4世紀後半から5世紀をピークとする、この汎東アジア的現象は、「東アジア墳墓文化」と呼べるという。前方後円墳は、そのなかの一つの地域様式と云うことになる。この古墳文化は、6世紀に入ると衰退し、その上に古代律令国家が誕生する。

このような中、吉備もまた「東アジア墳墓文化」を構成する一員であった。造山古墳は長さ約350mの巨大さである。堺市の百舌鳥陵山古墳とほぼ同規模である。有力な王権が存在していたであろう。この段階を「東アジア墳墓文化」の第1期とすれば、大王や有力者が営む大きな墳丘墓が廃れ、横穴式石室と土饅頭の墳墓に変化した段階を第2期とすることができる。

勝負砂(しょうぶざこ)古墳(5世紀後半)は、第1期から第2期に移行する時期の吉備を代表する墳墓である。軍装を主体とする副葬品が出土した。短甲は近畿との関係を示し、青銅製の馬具は朝鮮半島を媒介とした北方騎馬民族との結びつきが伺われる。

(勝負砂古墳出土の鉄製短甲 倉敷市HPより転載)

また石室を作って葬送を行った後に墳丘を築く増墓方法は、新羅などの朝鮮半島に由来すると指摘されている。吉備は近畿と朝鮮半島を結ぶ実力者の国であった。

造山古墳探訪記を記せばよかろうと思っていたが、あまりにも巨大古墳であったので、東アジア的視点で記してきた。吉備の大王は吉備氏(きびうじ)であったろうが、大和を凌ぐほどにはならなかった。

 

<了>