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北タイ陶磁の源流考・#51<エピローグ・その1>

2017-04-13 08:11:46 | 北タイ陶磁

<続き>

窯詰め技法に、中国式を踏襲している形跡が認められる北ベトナムとシーサッチャナーライ及びスコータイと、口縁同士と高台同士を重ね合わせる北タイ、焼台のみ用いるクメール、ブリラムの大きく3種類の技法が確認できる。

これらは、陶窯地によってバラバラの印象を受ける。轆轤の回転方向とあわせ、これらの基礎技術の陶窯地間の断絶は、窯様式を含めた陶磁生産技術の伝播・伝承に疑問を呈する識者が存在する一方、ドン・ハイン氏は、これらを些末とは云わないものの、窯構造以外の生産技術は一切無視して、地下窯も地上窯も、その根源は中国にあり、そこより伝播したとしている。

当該ブログでは、轆轤の回転方向と窯詰めの2つの主要な生産技術について検討した。その結果は親元からの伝播に、必ずしも固執せず時間の経過と都合により、変化しうるとの推論に達した。結論としてはドン・ハイン氏の中国根源説通りであろう。その他の基礎技術については、北タイの陶窯地ごとに独自の進展を遂げたものと思われる。

では、北タイの立役者は誰であろうか、過去<インドシナの治乱攻防と窯業>で触れたようにモン族以外の何者でもないように思われる。関千里氏も、その著書「東南アジアの古美術」で同様な見解をしめしておられる。そしてモン族はクメールの装飾技術を中部タイ・北タイに伝播する役目もになった。例えば、クメールの褐釉と黄釉の2色掛け分けは、シーサッチャナーライのみならず北タイ各地でも見ることができる。

しかしながら、この結論は現時点での結論であり、将来東南アジア特にミャンマーの考古学的新知見により、修正を迫られる可能性がある。

ドン・ハイン氏は根拠を示していないので真偽不明ながら、パガン近郊で9世紀以前から横焔式窯が使われてきたと記している。ミャンマー古窯址と古陶磁に詳しい津田武徳氏は、この件にまったく触れておられず不明な点が多い。それに代わる話といえば語弊があるが、津田氏はアラカンのミャウッウは1430年からアラカン王国の都であった。そこに横焔式窯であろうと思われる数基の窯址が存在すると云う。出土する陶磁片から考察するに、中国と云うより西方の臭いがする。・・・これらの事が残された課題である。

次回、これを<エピローグ・その2>として考察し、長かったシリーズを終了したい。

                              <続く>