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北タイ陶磁の源流考・#49<轆轤の回転方向は変化するのか?>

2017-04-01 13:13:38 | 北タイ陶磁
<続き>
 
変化の容易さは別として、轆轤の回転方向は変化するのであろうか? 西村昌也氏の北ベトナム・ドゥオンサー窯に関する調査報告によると、創業は9世紀まで遡り、初期の陶磁は左回転(中国・広東の影響)の轆轤で作陶されていたが徐々に変化し、最終的に右回転に統一されたと云う。その期間は約100年間であった・・・これは伝播時の生産技術(基礎技術)が変化することを示している。ではこのドゥオンサー窯の事例は突然変異で例外的な事例であろうか。
噺は飛んで恐縮であるが、轆轤の回転方向が変化する可能性を示す事例の1点目である。弥生土器と同じような土器作りがベトナム、タイやラオスで継続して行われている。この土器作りの歴史がどこまで遡るか不明な点もあるが、紐作りで叩き板を使って成形する様は、弥生土器と共通するところがある。これらは轆轤ではなく、作陶・成形する土器の大きさに応じた作業台上で行われている。
下の写真は、過去にハノイ女性博物館で観た、中部ベトナム・ビントゥアン省バックビン県・土器作り村の土器成形の様子をVTR放映している場面を写真撮影したものである。
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ここで注目すべきは、女性陶工の動きであるが、土器の底と下部の紐の積み上げ時は左回り(反時計回り)に陶工が移動し(上段写真)、土器の側面や上部さらには最終的な成形段階は右回り(時計回り)に陶工が移動(中・下段写真)している点である。土器を成形するのに、その進捗段階に応じて陶工の動きが左から右に変化することである。
このように状況に応じた使い分けが行われていることは、轆轤の回転方向は不変ではなく、状況により変化することを示しているのではなかろうか。
2点目は、東南アジアの土器と同じような叩きによる成形を西日本の弥生土器の一部と、古墳時代に始まる須恵器に、この技法をみることができる。須恵器の叩き技法は、朝鮮半島の新羅土器、伽耶土器を経て中国の漢式灰釉陶へ繋がるから、東アジアの大きな叩き技法の流れを汲むものである。
この須恵器を焼成する窖窯(穴窯)は、5世紀頃の古墳時代、今から1500年前に中国から朝鮮半島を経由して、帰化人がもたらしたと云うのが定説化している。その最初期段階の窖窯は堺市周辺の丘陵部に集中する。その陶邑窯址は北タイの楕円形・横焔式単室窯と構造が似ている。
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その陶邑窯出土須恵器のヘラ削り痕を調査・研究した報告書(注・1)によると、轆轤の回転について、5世紀代は左回転が主体、6世紀には右回転が主体となり、7世紀には右回転のみとなる・・・と、このように報告されている。つまり、ここでも100年以内に変化したことになる。
以上の2点が、東南アジアでの轆轤の回転方向が、本家の中国と異なる一要因であろうかと考える。従って製陶における基礎技術が変化しており、このことは必ずしも窯様式の伝播とリンクしていない可能性を示唆しているようである。
次回は基礎技術の一環と思われる、窯詰め技法について、窯様式の伝播との絡みで見てみたい。

(注1)回転運動から考古資料を考える・・・東海大学遺跡調査団編集
 
                            <続く>