臓器移植問題によって「脳死」が人の死かどうか騒がれている。確かに臓器移植さえすればこの子の命は助かるっと大勢の人たちが移植を待っている。しかし、ぼくは「命」というものはいじってはいけないと思っている。厳しい言い方だが、その人の持って生まれた運命というものは、あるがまま受け入れるのが自然の摂理である。結論的に言うと、まず、「脳死」は人間の死ではない。人間は60兆の細胞から成り立っているが、脳死で寝たきりの人たちでも、それぞれの細胞の中でそれぞれ1000匹単位のミトコンドリアが細胞核を中心として、まだ生きているのである。脳が死んでもそういう活動があるかぎり、それは人間の死とはいわない。人間は脳だけで考えているわけではない。60兆の細胞が考え、生きているのである。「脳死」を人間の死と定義すれば、寝たきりの脳死患者を抱えた家族はある意味解放されるし、臓器移植を待っている患者も移植によって掬われる。そしてそれを担当する臓器移植医学界もさらに医学の発展進化をとげられる。まさに三方いいことばかりだ。しかしそれは今生きている人間のご都合から見た効率主義である。ぼくは人間の浅はかな効率主義で「命」を含めた自然界の成り立ちを侮ってはならないと思っている。自然界、つまりこの地球上の生命の成り立ちというものは、地球が出来て50億年、生命が生まれて35億年、それだけの気の遠くなりそうな長い年月をかけて構築されてきたものだ。その源である「命」は人間が創ったものではない。その命には人間の浅知恵では計り知れない奥深いものがあるはずだ。だから、ぼくは、延命処置も臓器移植も遺伝子工学も自然摂理を損ねるもので反対である。必ず奥深い自然界からしっぺ返しを食らうことになるだろう。