まさおっちの眼

生きている「今」をどう見るか。まさおっちの発言集です。

ホトトギスはなぜ詠まれるのだろう

2009-06-08 | 随筆
今年も上記写真のホトトギスが渡来してきた。おいらの家は山間部にあるので、「ケキョ、ケキョ、ケキョ」と昼夜を問わず鳴き声がこの五月から響き渡っている。その鳴き声を「特許許可局」とか「テッペンタケタカ」と聞こえるというが、とにかくけたたましい。真夜中でも鳴いて移動しているから、こいつ鳥目でないらしい。五月頃中国などから渡来してきて、日本のウグイスの巣に托卵し、ウグイスに育てさせて、冬になるとインドや東南アジアに行って越冬するらしい。このけたたましい鳴き声がどうして古来から日本の俳人たちに詠まれているのか、よくわからない。古くは万葉集にも出てくるというし、枕草子では、ホトトギスの初音(その年に初めて聞く鳴き声を聞こうと夜を徹して待つ様が描かれているという。情緒もなく、けたたましいだけでそんなに魅力のある鳴き声だとは思えないのだが・・でも、芭蕉は「木がくれで茶摘ときけやほととぎす」と詠み、一茶は「うす墨を流した空やほととぎす」と詠み、夏目漱石も「時鳥(ほととぎす)厠(かわや)半(なかば)に出かねたり」と詠んでいる。ホトトギスは時鳥、子規、不如帰などとも書くが、正岡子規は22歳で喀血し、「赤い血を吐く子規鳥」の古事にちなんで「子規」と号し、「ホトトギス」という俳句雑誌まで創刊している。「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」という一連の信長・秀吉・家康の比喩はあまりにも有名だが、ウグイスならともかく、どう考えてもこの鳴き声(これを書いている今も鳴いています)に自分ながら文学性に繋がらない。あえて言うなら、その血を吐くような必死の鳴き方に、俳人たちはそれぞれの胸の内の必死さを託したのだろうか。初老間近のおいらには、もうそんな血を吐くような必死さがなくなったのかも知れない。