せっちゃんの毎日

せっちゃんの日々の記録

「トラック野郎」が逝ってしまった。

2014-12-03 05:43:57 | 昔話
昨日からの風雨…

朝方からは気温が下がって、

夜明け前の暗い空にチラホラ白いものが舞っていました。


先日 報道で『菅原 文太さん』も

亡くなられて居たそうで、懐かしい昭和の名優がまた消えてゆきました。



この人の映画で思い出す私の『トラック野郎トラック野郎パートⅡ

アサちゃんは、以前にも昔の思い出で書きましたが、

今もお元気で居るのでしょうか…


アサちゃんは、私が18歳の頃からの知り合いで、当時25か26歳位と思われます。

とてもユニークな人で、何時も見ていた、出で立ちは

上は白い鉄火シャツ、ラッパのブルージーンズにピンクのラメ入りの腹巻

それに、豆絞り柄のハチマキと、当時のトラック野郎さながらの出で立ちでした。

そんな出で立ちに何故か女物のサンダルを履いていました(笑)

それに大型のダンプをギンギラギンに飾り『ブイブイ』言わせながら街を走っていました。

当時、私は、家電屋の店をやっていましたので、朝晩、出勤の時に店の前を通ります。

母が外を掃いていると大きなラッパ型のクラクションを鳴らして通って行きます

亡き母は、彼の大のファンで、彼が来ると『アサが来たのねぇ~♪』と歌っています(笑)

アサちゃんは近くの運送屋さんに勤めていて、地方にも出掛けて行き

何時も母にお土産を持ってくるようで、母を『母さん、母さん』と慕っていました。

母も内地に行っている兄の代わりのようで、嬉しそうでした。

休みの日などは、ガソリンスタンドで車を洗っている私のところに来て、

『何処かに行くべ…』と声を掛けてきます。

当時、日曜はスタンドが休みで、ガソリンがあまり入っていませんでしたので

「ガソリンが無いもの…」と云いますと

ガソリンを捜して、友人宅へ行き、友人も誘ってガソリン捜し…

結局、何処にも無くて、断念するところに、

私の父の車が満タンでしたので、そこから半分頂く事にしました。

当時は、誰も自家用車などは持っていなくて、私の車も仕事用のライトバンです

ガソリンも入って、総勢4人で、「さて何処に行く?」と聞きますと

アサちゃんが「留萌に行くべ…

おっかぁが食堂をしてるから、なまら美味い!日本一のラーメン食わせるよ」と云うのです

早速、行き先が決まり、皆で「らーめん♪らーめん♪」と唄いながら行きました

処が着いたらお店の前に暖簾が有りません?

「休みかなぁ~?」と裏口に回ってアサちゃんが呼びますと

お母さんが『うちのどら息子は死にました』と取り合ってくれません。

「店は休みか?ラーメン食わしてくれろ…」と云いますと

『店は止めた』と云います。

ですので、日本一美味いラーメンはドンブリごと羽をはやして頭の上を飛んでゆきました。

仕方ないので「何でも良いから食わせろ…」と云いますと『何も無いよ…』と

『10年も音信不通の息子が来て、何を食わせろと言うのか?』とご立腹!

仕方ないので、おずおずと店を出てきた私達は、

朝から何も食べていないので、『何か食べよう…』とお金を徴収

処が、誰も持っていません。

結局、車に入っていた小銭でインスタントの焼きソバか何かを一つ買い

お湯を入れて貰って、待つ事5分!

通称『ボク』君に排水にお湯を捨てて来るように言いました

暫くすると「あれ~!」と悲鳴!

皆で行って見ると、麺ごと排水に捨ててしまい、

焼きソバも羽をはやして飛んで行きました。

結局、何も食べないまま、焼きソバのソースとのりを舐めながら帰ってきました。

そんな思い出も、振り返ってみると楽しい良き時代でした。

お金の有る時には近くのジンギスカン屋に行って、

盛りっきりの梅割を呑み、ドンブリいっぱいのご飯にジンギスカンを食べた

あの記憶… 先の事など考えもしない楽しい時代でした。

思い起こせば、色々有った私の『トラック野郎』の思い出ですが…

写真も無くなった今、

古き良き時代の一ページとして、記憶に留めて置こうと思います。


心より『菅原文太』さんのご冥福をお祈りします。