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身延山久遠寺から池上本門寺へ:日蓮上人の最後の足跡

2016-10-29 11:19:21 | Weblog

身延山へは4回目の参拝となりますが、池上本門寺へは初めての参詣です。
今回は身延山から、下部温泉、本栖湖、河口湖、山中湖を経て御殿場から東名高速道に入り、池上本門寺に向かいました。5時間のバス旅でした。
日蓮上人の最後となった旅に思いを馳せながらの参拝旅行でした。
 
上人の身延山での歩みを振り返ります。

1274年(文永11年)



 三年間の佐渡流罪後、鎌倉に召喚。身延一帯の地頭である南部(波木井)実長に招かれ、身延へ、身延山を寄進されます。
 身延山中腹から西谷を撮った写真です。上人が入山されたころは、当然のことながら三門も門前町もなく、周りの山の底に沈んだように大木に覆われた西谷に御草庵があっただけでしょう。

 日差しもあたらず、冬は雪が降り、夏は湿気の多い西谷の気候に御草庵は四年で柱は腐食し壁が落ちるという有様であったと伝わります。このような環境下、三年間の佐渡流刑の疲れもあったのでしょう、たびたび病床に伏されるようになります。
 なお、この年に蒙古来襲、文永の役。

1281年(弘安4年)



 南部(波木井)一族の家の子郎党挙げての尽力で、十間四面の大坊が西谷に建立されます。今ではその威容は見られず、想像するしかありません。西谷には、御草庵、久遠寺大坊、僧侶が住まう小坊や厩が見られたことでしょう。
 この年、ふたたび蒙古来襲、弘安の役。

1282年(弘安5年)9月8日・10月10日  *旧暦・新暦表示

 上人の健康回復を願った南部実長は常陸の所領・隠井(加倉井)の湯での湯治を勧めます。上人は湯治を決断、常陸への旅の途中に武蔵から上総・茂原を経て、安房・小湊での父母の墓参を旅程に組み込みます。

 実長が用意した栗鹿毛の馬に乗せられた上人と従う僧侶一行は実長郎党の若武者に守られて身延の山を下り、北上して下山兵庫助光基邸に泊まります。南下して駿河湾沿いに伊豆箱根へ向かう道をとらなかったのは、日蓮上人を快く思わない北条氏の勢力圏を避けるためだったのです。
 
1282年(弘安5年)9月9日・10月11日

 今でこそ富士川に沿って国道が甲府まで伸びていますが、当時は富士川の流れを大きく山側に迂回する道しかありませんでした。下山から山道を辿ると当時では難所といわれた早川に出ます。七面山、身延山、南アルプスの前山からの流れを合わて富士川に流れ込む早川は「早きこと箭(や)を射るごとし」と上人も述べられています。

 早川を渡り、三ツ石から現在421号となっている山道を辿り、富士川岸の切石まで往きます。手打沢から再び山道に入り富士川を大きく迂回して、ようやく富士川最上部、釜無川と笛吹川が合流する鰍沢に着き、大井庄司入道邸に宿泊しました。

1282年(弘安5年)9月10日・10月12日

鰍沢からは甲府盆地に入ります。釜無川、笛吹川を越えるのは難儀だったでしょうが、平坦な扇状地を歩むだけ、前日の富士川沿いの山道に比べれば、楽な旅程だったでしょう。
 
上人一行は盆地南端の曽根台地を目指し東進、曽根次郎宅に宿泊しました。
 曽根付近は古来からの放牧地があり、甲斐の黒駒に象徴される馬産地でした。また、古墳もあり、上人も古の人々へ思いを馳せたかもしれません。

1282年(弘安5年)9月11日・10月13日

上人一行は甲斐路を目指します。甲斐路は古代からの官道で御坂峠を越え富士山麓の北側を通り、東海道と結んでいました。「御坂みち」や「鎌倉往還」の名が残りますが、当時は単に「大道」と呼ばれていたようです。
 海抜300メートルの曽根から緩やかの登り道をたどり、御坂峠の登り口にあたる黒駒で宿泊したと伝わります。

1282年(弘安5年)9月12日・10月14日

 黒駒は海抜500メートル、御坂峠は1520m、標高差1000メートルを登らなければなりません。さらに御坂峠から河口まで700メートルを一気に下るという道中で最大の難所でした。馬の背に乗っていたとはいえ、病身の上人にとっては過酷な峠越えでした。
 河口の梅屋本庄家に宿泊します。

1282年(弘安5年)9月13日・10月15日

 上人の疲労が回復しなかったのか、その後の道中に備えてたのか、この日はわずか2里8キロしか離れていない暮地(くれち)の遠山藤学家に泊まります。暮地は三つ峠下にあり、富士山眺望地として知られている場所、上人も秋空の富士山を眺められたことでしょう。

 遠山家に逸話が伝わります。親戚の二人が竹ノ下、関本まで上人一行に付き添いますが、そのまま関本にとどまり、暮地と名乗り住みついたというのです。温暖な関本の地に惹かれて、暮地に戻る気持ちが失せたのでしょうか。

1282年(弘安5年)9月14日・10月16日

 暮地から鳥居地峠を越えて山中湖東岸に出ます。ここから海抜1168mの三国峠を越えますが、山中湖が海抜980mですからそれほどの登りではなかったでしょう。三国峠からは下り一方の道で明神峠を経て、現在147号となっている道を上野集落まで下り、そこからは集落を結ぶ路を南下し、海抜350メートルの竹ノ下で宿泊します。

1282年(弘安5年)9月15日・10月17日

 竹ノ下からは道中最後の峠越え海抜759メートルの足柄峠です。峠からは標高差700mを下り、関本(注・南足柄市)の下田五郎左衛門邸に宿泊しました。
 日蓮上人にとっては9年前、鎌倉から身延山に往く道中でも足柄峠越えでした。その時は竹ノ下から富士山の南回りで身延に向かっています。

 箱根越えよりも足柄峠越えのほうが急峻だが近道ということで、鎌倉・室町時代にはよく使われていたようです。ちなみに1336年(建武2年)足利尊氏と新田義貞の間で箱根・竹ノ下の戦いがありました。

1282年(弘安5年)9月16日・10月18日

 関本は海抜60m、ここから関東平野が始まり、平坦な道を往く道中となります。武蔵の国を目指すなら、現在の246号の道筋が一番近いはずですが、北条氏の領地を避けるように海岸沿いの道を選んだのではないかと言われています。 
 酒匂川を渡り、平塚の松雲山要法寺に宿泊、7里・28キロの道程でした。

1282年(弘安5年)9月17日・10月19日

 平塚から北に進み、相模川を寒川神社一之宮へと渡ります。さらに北上して、以前立ち寄ってことがある座間入谷の円教寺で休息、そこから東に進み、関谷にある福昌山妙光寺に泊まります。
 6里・24キロの道程でした。

1282年(弘安5年)9月18日・10月20日
 
 武蔵の国・池上宗仲邸へ向かいます。関谷から池上までの距離はおおよそ7里・28キロ、多摩川を渡り、千束池(洗足池)に到着したのが夕方でした。休息後、旅を続けますが、池上宗仲邸までわずか半里2キロの地点で上人の体力が尽き、馬籠の萬福寺阿弥陀堂へ宿泊されたと伝わります。
 この時のご様子が南馬込の萬福寺のホームページに詳しく描写されています。

萬福寺鬼子母神縁起
http://www.manpukuji.or.jp/publics/index/95/
 
 上人とお傍に侍る者を除いて一行は池上宗仲邸に急ぎ、日蓮上人ご到着を告げたでしょうから、9月18日池上宗仲邸到着と伝わっているのでしょう。

1282年(弘安5年)9月19日・10月21日

 池上宗仲邸に安着された聖人は南部(波木井)実長への手紙を認めます。聖人の生涯最後の手紙となる「波木井公御報」です。筆も持つことが出来ないほど衰弱された上人のお言葉を弟子が記しました。

 御報からは、日蓮上人のお声が聞こえてくるようです。手紙の末尾に記す「はんぎょう(署名・花押)」さえも記すことができないお体なのにもかかわらず、共に旅をした愛馬「くりげかげの御馬」を案じられる聖人のお優しいお心に胸をうたれます。愛馬に付き添っていた舎人ともども「上総のもばら殿(注・領主の斎藤兼綱)」に常陸の湯より帰るまで預けさせてほしいという文面からは、上総・茂原から安房・小湊へと旅を続け、両親の墓参をという強いお心が読み取れます。
 次のサイトで波木井公御報の原文をぜひお読みください。

岡本亮伸・日蓮聖人『波木井殿御報』を味わうこと
 http://www.eijuin.jp/News/view/16/621

1282年(弘安5年)10月13日・11月14日



 ずっと病床につかれていた日蓮聖人は死期が近いことを知り、六老僧、日昭・日朗・日興・日頂・日持・日向に全てを託します。
 10月13日辰の刻(午前8時頃)、池上宗仲邸の仏間で弟子と信徒の読経と日昭の打ち鳴らす臨滅度時の鐘が響き渡る中、60年の生涯を終えられます。

 毎年、全国の日蓮宗寺院では、日蓮上人の御命日である10月13日を中心にお会式(法要)が営まれます。
 特に日蓮聖人御入滅の霊跡である池上本門寺では、12日の夜には万灯行列が行われ、毎年30万人の人出となります。

参考資料
*市川智康 「日蓮聖人の歩まれた道」
*宮崎英修 「波木井殿御報‘常陸の湯’について」
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