新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

多文化共生と移民導入の問題

2024-06-29 07:48:28 | コラム
久しぶりに「朝まで生テレビ」を聞いてー「多文化共生と移民導入の問題:

今朝程は午前3時半頃に目が覚めたので、何気なく5チャンネルを見れば「朝まで生テレビ」で件名のような議論が展開されていた。その中の議題の一つに「単純反復労働をする人口の減少を補う為に、外国人労働者を入国させること」というのがあった。途中から聞いたので確かなことは解らないが、その狙いは多くの異文化の国から労働者を導入することの当否/可否/問題点を論じたかったようだった。

ここでいきなりこの件について、私の経験談に基づいて論じてみよう。私は1972年に39歳にして無謀にも「アメリカと我が国が言語・風俗・習慣・思考体系がどれ程違うか」などに殆ど予備知識なく入って行ったのだった。即ち、私が常に「問題あり」と論じている考え方である「国が違っても同じように会社となっている以上、大きな違いはなく、何とかなるだろう」と大雑把に考えていた。

即ち、「同じ組織の中で、同じ目的の為に働くのであれば、外国人の私でも齟齬は来すまい」と考えていたと言うこと。確かに、何年か何ヶ月かは問題も起こさず過ごせた。だが、そこを過ぎると「これではどうにもならなくて困るな」というような障壁に出会ったのである。それは言葉が通じれば何となるという程度の簡単な食い違いではなかった。それ即ち「文化(=言語・風俗・習慣・思考体系)が違う国だと解ったこと」なのである。

アメリカでは「新卒から入社して、その会社独特の教育を経て平社員から段階を経て昇進していくようなシステムではなく、即戦力として集められた経験者を、全権を持つ事業本部長(GM)がその配下に属する彼等を指揮・命令して運営していく」のである。部員全員はGMの指揮の下に全員横一線で並んでいるのであり、身分の上下などない。そこから滅多に段階的に課長だの部長などに上がっていくことない仕組みなのだ。

そういう身分の垂直上昇など望めない世界だと割り切って、それに慣れていかないことには、幻滅を感じてしまうだろう世界なのだ。要するに「その国のビジネスの世界でも何でも、歴史的にも伝統的にも文化が確立されているのだから、そこに自国で通用していた自分の主義主張を持ち込んではならず、何とかして異文化に合わせて現地人たちと共存を心がけねばならないのだ。「出来ない」とでも言えば「それなら出て行って貰おう」となること請け合い。

この辺りを、ブラジルから10歳でやってきた日系人が小・中・高・大学を経て日本の文化に適応して会社まで設立した経験から言ったことが「小学校から勉強していないことには、日本独自の文化との共生は難しいのでは」だった。一理あると思って聞いた。私は何度か回顧したことで「アメリカと我が国の企業社会における文化の相違点」を満足できるまで把握できるのに10年以上を要していた。即ち、小学校から中学を終えるのと同じ長さではないか。

テレビではお馴染みの論客、デイヴィッド・アトキンソン氏は「アメリカには膨大な数の移民が入っていると言われているが、その内訳は余り取り上げられていない。南アメリカやアジアからの移民は確かに多いが、現実には大学卒でマスターを持っている人たちが48%にも達していて、こういう人たちは犯罪に手を染めるようなことがないと認識すべきだ」と指摘していた。「ナパヴァレー等に行けば、あらゆる国の人たちが働いている」とも言った。

このブラジルからの人とアトキンソン氏の意見を合わせると「単純反復労働に従事して貰う移民と、大卒のような働き手に二極化していく方向に」となるようだった。但し、西欧の諸国とは文化が歴然として異なる我が国に、高度な職を目指して彼等が入って来ても日本文化に同化して馴染んでくれる確率は低いと思う。では、単純労働力不足を補うべく導入する人たちが、文化の相違点を知って同化することはもっと難しいだろう。

私が今日までに繰り返して指摘してきたことは「アメリカでもUKからでもEU圏内からでも、現地に一流の大学の出身者や、マスターの学位を取得した将来の明るい展望が開けている者たちが、我が国に機会を求めてやってくるかという事。あり得ないだろう。そうではないような連中が、ここ新宿区百人町(マスコミ報道では「新大久保」に無数に群がっているではないか。

私は39歳にして勇敢にも「行く手に何が待ち構えているか」をろくに認識せずしてアメリカのビジネスの世界に入って行った。そして、10年を過ぎた辺りでは何とか異文化に馴染んで共生出来るようになったのではなく「どうやったら異文化に合わせられるか」かが解っただけのことだった。心の奥底では「絶対に日本人として誇りと矜恃は失わないよう」に努めていた。

結果的には同僚たちに「君と共に仕事をしていると、その仕事ぶり、その話している言葉、その服装、そのアメリカ慣れを見ていると、我々の仲間だと思ってしまう。だが、良く見ていると君は骨の髄まで日本人である(”Japanese to the core”と表現した)と解る」と指摘されてしまった。

私の結論は「異文化との共生とは、自分の国の文化との相違点を可能な限り認識して、何とか合わせられるように努めること」であろうかと思う。余所の国の人を受け入れる場合にはお互いの文化の相違点を知ってから慎重に事を運んだ方が宜しいと思う。

その際にも留意すべき点は「異文化に合わせる(迎合する)為に、自国の文化をよく認識して忘れてはならないこと」だと思う。異文化の世界で長い時間を過ごした経験を経ていないと、この私の指摘は容易に納得して貰えないと思うのだ。



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