○336『日本の歴史と日本人』滝川事件(1933)

2021-02-14 21:08:04 | Weblog
336『日本の歴史と日本人』滝川事件(1933)


 文部大臣鳩山一郎は、1933年4月 22日、京都帝国大学総長に対し滝川に辞職勧告を行うよう命じたのに続き、5月26日には滝川を休職処分にする。
 これに対して、学問の自由は譲れないとの議論が沸騰する、そして、同日中には、佐々木惣一、末川博、恒藤恭をはじめとする京大法学部の全教官は、大学の自治を侵害するものとして抗議のため辞表を提出するのであった。

 それというのも、当時の帝国大学というのは、厳めしさはあるものの、大学自治を基本に自由主義的な雰囲気も醸成されていたようで、とりわけ京都は政治の中央からかなり離れている関係であろうか、日本政治の右寄り化の中でも反骨精神というか、そんな気概を保持していたようなのだ。
 ついでに、この学問の府のそもそもとは、大阪の舎密局(せいみきょく、「舎密」とはオランダ語で「化学」の意味)といって明治政府が、幕府の洋書調所をこの地(現在の大阪市東区)に移した。その後には大阪府に所管を移す。
 1869年(明治2年)には、オランダ人の軍医ハラマタを教頭に迎え、理化学系の学舎として開校を果たす。
 翌年には、理学所として改称を行うも、ついで洋学校と合併して開成所となり、その後も第一番中学校、外国語学校、英語学校などと変遷して、第三高等中学校と成り変わる。
 そして迎えた1889年(明治22年)には、京都に遺伝子治療し、第三高等学校、その後改称して京都帝国大学(現在の京都大学)となって落ち着く。

 話をもどそう。それでも、文部省は、弾圧をやめない、「楯突くもの」に対して、さらに過激な処分へと発展していく。7月 10日には、滝川、佐々木、宮本英雄、森口繁治、末川らの6人の教授、同25日恒藤、田村徳治の2教授のみをそれぞれ免官としたという。また、滝川の「刑法読本」は、同9月5日発禁となる。

 それでは、滝川の何が問題視されたのだろうか。それについては、具体的には、「刑法総論」と「刑法各論」において、罪刑法定主義を貫く立場と、犯罪の根源は社会にあるという自由主義思想を結びつけた刑法理論を主張した。

 このうち罪刑法定主義というのは、近代刑法の習いにて、罪とそれに対応する刑罰について、あらかじめ明文でもって定めておく。なので、施政者の側が勝手に罪を被せるようなやり方はしないという訳だ。また、後者の社会の中でその意義なりを考えるのは、刑罰制度の真の狙いとは、社会を反映するとともに、社会を良くすることと手を携えて進むべきものという姿勢をもって行うべきなのだろう。

 また、1932年に中央大学における「トルストイの「復活」に現れた刑罰思想」と題する講演などについても、同様に危険思想を社会にもたらすものとして、断罪するに値するというのであった。


(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

○550『自然と人間の歴史・日本篇』日本学術会議の6委員任命拒否(2020~)と組織改正問題

2021-02-13 21:59:04 | Weblog
550『自然と人間の歴史・日本篇』日本学術会議の6委員任命拒否(2020~)と組織改正問題


 そしての政府は、同会議に対し、政府の組織から独立させるような、揺さぶりをかけるとしか言えないような挙に出ているのであろうか。
 こうした国からの独立の提案に対し、学術会議は警戒をしているようだ。2020年12月16日に政府側に提出した中間報告では、今後を巡り、①国を代表する機関としての地位②公的資格の付与③国家財政支出による安定した財政基盤④活動面での政府からの独立⑤会員選考における自主性・独立性の5要件が、引き続き必要としている。そして、現在の形態なら5要件すべてを満たすとした。
 その上で、独立するとしても「5要件を満たす制度設計が可能なのかが論点」と、政府を牽制する形だ。
 振り返ると、学術会議は、1949年に創設されて以来、そのあり方は何度も議論されてきた。近くでは2015年に科技相の元に設置された有識者会議があり方について検討し、この時は「現在の制度を変える積極的な理由は見いだしにくい」と評価しているところだ。
 学術会議は、組織を云々する話には、こうした点を踏まえるべき、したがって設置法を改正してまであり方を変えなければいけないような「明確な理由がクリアになっているのか」としており、国民不在のままこの話が進められることに疑問を投げかけている形だ。
 それにもう一つ、今回の問題がなぜ起こったのかをめぐっては、学術会議が、組織として軍事研究禁止を継続していることが、今回の政府措置の主な背景の中に含まれているのではないか。
 これに関して、同会議の検討委員会が始まったのは、2016年6月のことだった。その前年の2015年に、「防衛装備庁の委託研究制度をめぐる論議がきっかけだった」(朝日新聞、2017年3月8日付け)という。


(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

♦️279の3『自然と人間の歴史・世界篇』権力の平和的移行(アメリカ、「1800年の革命」)

2021-02-13 19:40:34 | Weblog
279の3『自然と人間の歴史・世界篇』権力の平和的移行(アメリカ、「1800年の革命」)

 アメリカ合衆国憲法の下で、平和的な権力の移行が初めて実現したのは、イギリスからの独立1800年の大統領選の時だ。
 当時のアメリカでは、フェデラリスト(連邦党)とリパブリカン(国民共和党もしくは国民民主党と訳される)という2つの政治勢力が国家の将来像をめぐって争っていた。
 フェデラリストは、農業のみならず、商工業の発展を目していた、強い国家を理想としていたのかもしれない。こちらの党派の、その時のアメリカ第二代大統領は、ジョン・アダムスであった。
 一方、リパブリカンは州権を重視し、独立自営農民からなる国家作りを目指していた。ちなみに、こちらの頭目である、大統領候補トマス・ジェファーソンは、こんな主張の持ち主であった。


 「一般的にいうなら、どういう国家でも、農民以外の市民諸階級の総計が農民の総計に対する比は、国家の不健全な部分が健全な部分に対する比であり、またそれは国家の腐敗の度を測るに足るバロメーターである。耕すべき土地がここに存在するからには、わが市民が仕事台であくせくしたり、糸巻き車をくるくるまわしたりするのは、けっして見たくない風景だ。」(トマス・ジェファーソン「ヴァージニア覚書」、「原典アメリカ史」第二巻、岩波書店)

 また、こうもいうのが、口癖であったらしい。いわく、「小さな土地所有こそ、国家にとってもっともたいせつな人々である」と。これなどは、現代人からみて、まさに、破天荒な主張にも聞こえるのは、なぜなのだろうか。

 そして迎えた1800年の大統領選挙では、大いなる競り合いを演じた。互いを国家の将来にとって危険な存在とみなすかのような激しい選挙戦を繰り広げる。一説には、結果次第では連邦を離脱する州が現れうるような怪しい雰囲気であったようなのだ。

 さて、選挙ではフェデラリストの候補者を破って、リパブリカンを率いるジェファソン副大統領が僅差で大統領に当選した。しかも、選挙人の投票では決まらなかったため、連邦議会の投票で決まった模様だ。いわば、ひらたくいうと、ギリギリのところで、権力の座をもぎ取った訳なのだ。

 とはいうものの、そのことは、合衆国憲法は平和的な権力の移行を前提としている、というまでであって、そのことを保証しているわけではない。
 おりしも、その後のジェファソンが、彼れの権力の移行を好まない勢力により暗殺される可能性すらあったのかもしれない。そのため、フェデラリストがジェファソンの大統領就任を妨害するのを止めるために軍を投入することが検討されたというのだか、真偽のほどは定かではない。

 結局、大きな混乱のないまま、翌1801年にジェファソンが平和的に大統領に就任し、ここにアメリカの新たな一歩が踏み出された格好となった訳なのだ。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

♦️279の9『自然と人間の歴史・世界篇』ゲイリュサックの法則(1805)、ドルトンの原子説(1803)、ゲイリュサックの法則(1808)からアボガドロの法則(1811)へ

2021-02-13 08:39:52 | Weblog
279の9『自然と人間の歴史・世界篇』ゲイリュサックの法則(1805)、ドルトンの原子説(1803)、ゲイリュサックの法則(1808)からアボガドロの法則(1811)へ

 さて、気体の状態を推し量るということでは、1805年、フランスのゲイ・リュサック(1778~1850)が、気体の化学反応一般に成り立つ法則を探していた。そして、反応物および生成物の体積を比較すると、常に簡単な整数比になるのを発見した、これをゲイ・リュサックの法則という。

 言い換えると、この法則は、気体反応に関するもので、いまある気体が反応して別の気体を生成し、その全ての体積を同じ温度で測定した時、「反応物と生成物の気体の体積の間の比は、簡単な整数の比で表される」というもの。

 これを例えると、いま2立方メートルの気体水素と1立方メートルの気体酸素からは、過不足なく反応して水を生成する。その水を通常摂氏100度以上に熱すると、気体の水蒸気になる。このような状態で、反応物である水素と酸素、生成物としての水蒸気との体積を比較すると、常に2対1対2となっている。

 次に紹介するのは、イギリスの化学者ジョン・ドルトン( 1766~ 1844) であって、1803年に原子説を発表した。その原子説とは,質量保存の法則・定比例の法則を説明するためにドルトンが提唱したものである。それによると、元素はそれぞれ固有な性質と質量とをもった微粒子、すなわち原子から成り、化合物は異なる元素の原子が一定の割合で結合してできるという。


 そして迎えた1811年には、新たな発見者が登場してくる。イタリア人物理・化学者アメデオ・アヴォガドロ( 1776~ 1856 )は、分子の存在を仮定し,現代化学の概念を築いた。

 1811 年には、論文「物質の基本粒子の相対的質量とこれらの化合比率を決定する一つの方法」をフランスの科学雑誌に掲載した。その中で、原子が整数比で結合してできた分子の概念を考え、同じ体積の気体は同数の分子を含むという仮説を提唱する。これだと、先のドルトンの原子説は否定されよう。

 具体的でいうと、ゲイ・リュサックの法則とアボガドロの法則より、先の反応例でいうところの、同温・同圧のもとでは、反応に参加する水素単体、酸素単体、水蒸気の数の比率は、2対1対2であったのを振り返ってほしい。
 ところが、ドルトンによると、水素単体とは水素原子、酸素単体とは酸素原子よことをいうのであるから、水素原子2個と酸素原子1個が反応して、水蒸気が2個生成されることになっている。なので、これをうまく説明するには、酸素原子が2つに分割されねばなるず、これはドルトンの原子説に合わない結果となるからだ。

 しかしながら、当時はまだ、彼の新説は大方に受け入れられなかったという。

 アボガドロの死後、かれの名前が輝く時がくる。 1860 年の国際化学者会議での、イタリアの化学者カニッツァーロの発表を機に、再評価される動きとなったのだ。後に、「同圧力、同温度、それに同体積の全ての種類の気体には同じ数の分子が含まれる」という整理がなされることで、アボガドロの法則と命名された。


(続く)



♦️387『自然と人間の歴史・世界篇』ケインズとその時代(20世紀の前半の世界経済)

2021-02-12 19:48:22 | Weblog
387『自然と人間の歴史・世界篇』ケインズとその時代(20世紀の前半の世界経済)


 ジョン・メイナード・ケインズ(1883~1946)は、イギリスの経済学者、今も私たちの暮らしになくてはならない経済学の一分野を切り開いたのて、広くしられる。今日の複雑化していっている経済学の、一つの再出発点となっているのではないだろうか。

 ケンブリッジ大学で主に数学を学ぶ。1911年に、「エコノミック・ジャーナル」の編集者とる。 1915年にはらイギリスの大蔵省に入る。

 第一次大戦後のヴェルサイユ条約の講和会議にイギリス大蔵省代表として出席する。この会議では、フランスがドイツの賠償を引き出そうと頑固な態度に終始する、その中でイギリスは、ドイツへの賠償請求にはそもそも反対であった。

 1922年には、ケインズは、講和条約を批判する「平和の経済的帰結」を公刊した。その後、 だんだんに金融・通貨問題に関心を持つようになっていく。1930年には、「貨幣論」を公刊する。

 1929年にはじまった世界恐慌の中では、同年10月24日ニューヨークのウォール街で起きた株の大暴落が引き金となった。そして、前代未聞の世界大恐慌に発展していく。

 このとき、アメリカの富は半減し、失業率は約24%にも達した。 また、イギリスでは工業生産高が約30%低下し、失業率(1930~35年平均)は約18.5%にもおよんだ。

 各国は、保護貿易主義をとり、欧米を中心としたブロック経済をもたらし、その中で、 ドイツやイタリア、それに日本でファシズムへの傾向を強めていくことになる 。1931年には、日本が満州事変を、1933年にはドイツのナチス独裁が成立する。

 イギリスでのケインズは、どうであつたか。彼は、緊縮財政を行うマクドナルド内閣を批判していく。 当時の主流派経済学にたつピグーの雇用理論に反対する。

 しかして、これは、1936年には、主著「雇用・利子および貨幣の一般理論」 (通称「一般理論」)を発表する。

 第二次大戦後は、IMF(国際通貨基金)設立会議をはじめとした国際通貨体制の構築にも活躍する。

 それでは、ケインズは、これらにどのような立場で臨もうとしたのだろうか。それを窺わせるものに、「戦争の経済的原因」についての見解を、きる一般理論の段階で、それなりに述べているのでは、ないだろうか。それには、例えば、こうある。


 「私は前章において、自由放任主義の国内体制と19世紀後半において正統的なものであったような国際金本位のもとにおいては、政府にとって国内における経済的な苦悩を軽減する途(みち)は市場獲得競争による以外にはなかった、ということを指摘した。なぜなれば、慢性的あるいは間欠的な過小雇用の状態を救助すべき方策は、貿易差額を所得勘定において改善する方策以外には、すべて無効に帰したからである。


 かくして、経済的者たちは現在行われている国際経済体制を、国際分業の利益をもたらすと同時に各国の利益を調和させるものとして、賞賛するのを常としたのであるが、実はここには好ましからざる作用をもたらす力か潜在しているのである。」(ケインズ著、塩野谷祐一訳「雇用・利子および貨幣の一般理論」
東洋経済新報社、1941によるものから、「一般理論」第六篇「一般理論の示唆に関する若干の覚書」)

 続けて、こうある。

 「富裕な古い国にして市場獲得のための闘争を閑却(かんきゃく)したならば、その繁栄は衰退するに至るであろうと信じていた政治家たちは、常識と事態の真の推移に関する正しい理解とをもって行動していたわけである。


 しかし、もし諸国民にして国内政策によって完全雇用を実現しうることを学びうるならば(そしてまた、もし彼等がその人口すう勢においても均衡に達しうるならばーーとわれわれは附言しなければならない)、一国の利益を隣国の利益と対立関係におくものと予想されるような重要な経済助力は不必要となる。


 妥当な条件での国際分業も国際的貸付も依然その成立の余地をもつであろう。しかし、一国が他国から買おうと欲するものの支払いの必要からではなく、貿易差額を自国に有利に転化させるように国際収支の均衡をくつがえそうとする明白な目的をもって、自国製品を他国に強要したり、隣国の売込みを撃退しなければならない差し迫った動機はもはや存在しなくなるであろう。」(同)

 さらに、こういう。
 「国際貿易は現在見られるような状態、すなわち、外国市場への販売に極力努めながら購入はこれを制限することによって国内における雇用の維持を図ろうとする必死の術策ーーそれは、もし成功したとしても、ただ失業問題を、闘争にまき込まれた隣国へ転嫁するに過ぎないであろうーーであるという状態を止めて、相互利益の条件のもとに財貨および用役を喜んで、しかも妨害されることなく交換するものとなるであろう。」(同)


 そしては、こう慨嘆している。

 「これらの観念の実現は架空的な希望であろうか。それらは果たして政治的社会の発展を支配する諸動機のうちに不十分な根底しかもたないものであろうか。それらによって阻害される利益は、それらによって増進される利益よりも強くかつ明白なものであろうか。」(同)


 



(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

○203の4『自然と人間の歴史・日本篇』陽明学(佐藤一斎)の発達(18~19世紀)

2021-02-11 20:35:44 | Weblog
203の4『自然と人間の歴史・日本篇』陽明学(佐藤一斎)の発達(18~19世紀)


 佐藤一斎(さとういっさい、1772~1859)は、江戸時代中期からの儒学者だ。武家の生まれ。幼少から読書を好み、礼法や書道、それに武芸にも優れていたという。
 1790年(寛政2年)の19歳にして、美濃国(みののくに)岩村藩との関係で、藩主松平乗保の近習となる。
 とはいえ、それ以前から、前藩主松平乗蘊の第三子で、一斎の父がその烏帽子親となった4歳年長の松平衡()まつだいらまもる)と仲がよくて、儒学をともに学んでいたとも。
 そのうちに、井上四明らの門に出入りしていたが、1791年(寛政3年)には、早々職を辞す。
 それからは、中井竹山と林錦峯について儒学を学ぶ、そしての22歳の時には、幕府公認の家柄、大学頭林信敬に入門する。
 その年、この信敬が没し、嗣子がなかったため、幕命によって衡が林家第8代の大学頭をつぐと、一斎は、その衡すなわち林述斎の門人となった。一斎と述斎は仲がよくて、34歳の時の一斎は、林家の塾長になっている。
 なお、岩村藩との関係では、55歳の時、老臣の列に加えられる。
 その後も、林家の門人という私的な立場にいて、林述斎が没した年の1841年末(天保12年)に70歳で幕府の儒臣となる。「おかみ」に招かれての栄誉というべきか。
 そうして、昌平黌(しょうへいこう)の官舎に移る。それからは、将軍はじめ諸大名にまねかれて講義をしたようだ。
 その儒学は陽朱陰王と評された。朱子学を奉ずる林家の塾に籍をおいたものの、陽明学への関心はその前から強くあり、こちらの方が本命だあったようなのだ。

 その証拠に、一斎の門下には、佐久間象山、横井小南、中村正直、山田方国などの面々がズラリと並んでいて、そこからの系統を含めると、さながら「山の如し」か。とりわけ、佐久間象山の門下には、吉田松陰がいるのを忘れてはなるまい。

 学風については、例えば、こうある。

 いわく、「少にして学べば壮にして為すことあり。壮にして学べば老いて衰えず。老にして学べば死して朽(く)ちず。」(「言行四録」)

 また、始祖・王陽明(おうようめい)の中心概念としての「知行合一(ちごうごういつ)」のすすめとしては、こういう。

「心の官は則ち思うなり。思うの字(じ)は只だ是(こ)れ工夫の字のみ。思えば則ち愈(いよいよ)実なり。その篤実なるよりして之を行(こう)と謂(い)い、其(そ)の精明(せいめい)なるよりして之を知と謂う。知行(ちぎょう)は一の思うの字に帰(き)す。」(「言行四録」)


 変わったところでは、次のような下りを紹介しておこう。

 「世に一種の心学と称する者あり。女子、小人に於いては寸益(すんえき)無きに非ず。然(しか)れども要するに郷愿(きょうげん)の類たり。士君子にして此(これ)を学べば、則(すなわ)ち流俗(りゅうぞく)にしずみ、義気(ぎき)を失い。尤(もっと)も武弁の宜(よろ)しき所に非ず。人主(じんしゅ)誤って之れを用いば、士気をして怯懦(きょうだ)ならしめむ。殆ど不可なり。」(「言行四録」)
 
 これなどは、かなりの程度断定口調によるもので、学者としてわざわざここまでいうのは、色々あって黙視できなかったのであろうか。見られるように、商人出身の石田梅岩が唱える心学を通俗平凡なものとしている、ならば比較相対としての、「士君子」の歩む道はそれほどに尊いのだろうかと、勘ぐってみたくもなろう。
 概して、一斎によるかような論難は、当時の社会的風潮を、考慮しようとも、多分に「いただけない」。岬龍一郎氏も、その著書の中で、「学問は決して武士だけのものではなく、難しいから正しいというわけでもない」(「現代語抄訳ー言行四録」PHP研究所、2005)とされているところだ。思うに、一斎にはこのような場合、その道の大家として泰然自若を装っていれば、それはそれでよいのではないだろうか。

(続く)


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

203の3『自然と人間の歴史・日本篇』心学の発達(石田梅岩とその弟子たち、18~19世紀)

2021-02-11 18:37:30 | Weblog
203の3『自然と人間の歴史・日本篇』心学の発達(石田梅岩とその弟子たち、18~19世紀)


 石田梅岩(1685~1744)は、江戸時代中期の、亀岡(現在の京都府亀岡市)の生まれ。後の自身が、「父の名は浄心といい、その教育は厳しくただしかった」と記す。幼くして自立心が養われたのは、間違いあるまい。そのためか、生家近くの遊び場所だった八幡神社の神官や春現寺の禅僧からも学ぶ。

 11歳で京都に丁稚奉公に出る。よく働いたものの、15歳の時に奉公先が倒産し、やむなく亀岡に帰る。実家にいるときも課題を見つけて勉強を続けた模様。

 23歳で再び京都に奉公に出る。その頃であろうか、「神道を介して、人の人たるべき道を説きたい」という志を立てたらしい。


 その後の宝永の大火で京都市中が灰燼に帰すと、梅岩は世を正そうと辻に立ち説法を始める。商人たちは、その主張にだんだんに関心を示していったという。


 そして迎えた1729年(享保14年)には、京都車屋町通御池上ル所東側(現在の二条御池駅東側)の借家にて私塾を開く。
  
 その学風は、自身の体験に根ざしたものであった。例えば、こうある。

 「商人の買利天下お召しの禄なり。それを汝、独り売買の利ばかりを欲心にて道なしと云い、承認を憎んで断絶せんとす。」(「都鄙(とひ)問答」)
 また、儒教の教えから「仁義礼智信」を選び、これを生活の指針として常に心掛け、いうなれば、それを商人道に置き換えて商売を実施すべきであると説く。

 みられるように、大した度胸であるというほかはあるまい。身分に厳しい江戸時代でありながら、わけても商人の立場を肯定し、その社会的役割を表舞台に出したことでは、時代の最先端を歩いた人物として、特筆に値しよう。

 そのうちに弟子も育ってきて、手島堵庵(てしまとあん)や中沢道二(なかざわどうじ)らによって、その主張は寺子屋などを通じて京都、大坂の外にも広められていく。さらには、幕府や諸藩の中にも支持が広まることで、19世紀初め頃になると、庶民道徳の一典型を成していくのであった。
 ただし、それはもちろん封建秩序の域を出るものではなく、時代が幕末の動乱期にさしかかるにつれ、半ば近くに衰退していったようである。


(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

♦️815『自然と人間の歴史・世界篇』現代における宗教・倫理観(諸派にみる「奇跡」を巡る解釈を巡って)

2021-02-09 22:16:02 | Weblog
815『自然と人間の歴史・世界篇』現代における宗教・倫理観(諸派にみる「奇跡」を巡る解釈を巡って)


 まずは、キリスト教でいうところの「奇跡」の物語から、しばし紹介しよう。取り上げたいのは、キリストが死後しばらくして生き返ったという話である。

 それというのも、新約聖書の記述から、引用すると、こうある。

 「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
 そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。
彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。
 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
 それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。
彼女たちは驚いた。
青年は言った。
「驚いてはいけません。
あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。
あの方はよみがえられました。ここにはおられません。
ご覧なさ い。ここがあの方の納められた所です。
ですから行って、お弟子たちとペテロに、
「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。
前に言われたとおり、そこでお会いできます。」と言いなさい。」(マルコによる福音書16章 1-7節)

 ここには、3日目にキリストその人が命を吹き返したことが、記されているものの、それにちなんだ「イースター」(現在では、復活祭を意味する)という言葉は出てこない。その由来としては、ゲルマン神話中で「エオストレ(Eostre)」という豊穣の女神であって、ゲルマンの社会と関係のなかったキリストとの直接的なつながりはなく、そのかぎりでは異教の祭りが、後代のゲルマン人にキリスト教が浸透する過程で、聖書的に贖われたと考えられているようだ。

 ちなみに、サイト名「yougob.co.uk/」のトピックス欄中に「Philosophy & religion」という項目があり、「Jesus, his birth and resurrection: fact or fiction?」(December 29, 2020, 7:46 PM JST)なる記事として、こんな調査結果を伝えている。

「Three in ten people in Britain say that the Biblical portrayal of Christmas is accurate. Just over a quarter of Britons believe that Jesus was ‘the son of God’

The stories of Christmas and Easter form the foundations of the Christian religion and beliefs. A YouGov study on the perception of Christian religious holidays has looked into how familiar Britons are with the Biblical accounts of events celebrated on Christmas and Easter, whether they believe them to be accurate, and what they think about the identity of Jesus Christ.

The Biblical accounts of Jesus’ birth and resurrection
Seven out of ten (69%) Britons say they are ‘very familiar’ with the story Jesus’ birth and a further quarter (26%) said they are ‘somewhat familiar’.

When it comes to Easter – the story of Jesus’ resurrection – six in ten (61%) say they are very familiar with it, and another three in ten (32%) are somewhat familiar.

For both stories, the percentages of those who are familiar with them are almost the same for Christians, non-Christians and those who don’t identify with any religion.

 これによると、イギリスの人々のキリスト像というのは、クリスマスやイースターの行事などで相当程度に親密感(very familiar’ with)が培われてきているようである。しかも、かなりよろしいような筋書き(奇跡など)として幅広く受け入れられているのが窺えるのではないだろうか。

🔺🔺🔺

 次に紹介したいのは、倫理ということであろうか、孔子の言葉に、こうある。

○「子不語怪力乱神。」(述而第七)

 その書き下し文は、次の通り。


「子は怪力乱神を語らず。」(「論語」雍也第六)

○樊遅問知。子曰、「務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣」。
問仁。曰、「仁者先難而後獲。可謂仁矣。」(雍(よう)也第六)


 その書き下し文は、次の通り。


「樊遅(はんち)知を問ふ。子曰く、「民の義を務(つと)め、鬼神(きしん)を敬して之(これ)を遠ざく。知と謂(い)ふ可(べ)し。」

○「季路問事鬼神。
子曰、「未能事人、焉能事鬼」。
曰、「敢問死」。曰、「未知生、焉知死。」(「論語」第六先進)

 その書き下し文は、次の通り。


「季路(きろ)鬼神に事(つか)ふることを問ふ。
子曰く、「未だ人に事ふること能(あた)はず、焉(いづ)くんぞ能(よ)く鬼(き)に事へん」。
曰く、「敢(あ)へて死を問ふ」。曰く、「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん」と。」

 これらから窺えるものとしては、孔子は、奇跡などの非日常的な事象については、多くを語りたがらなかった。わけても、「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん」というあたりは、今日でいう実証主義にも似ているのではないか。もっというならば、やたらと演繹(えんえき)的な思考をする向きには、はっきりと距離を置いて、それらを打ち消すねらいさえ込められているように感じられるのだが。

🔺🔺🔺

 それから、およそ「奇跡」という非日常的な現象に対して、独特な見解を表明しているのが、ブッダ(「仏陀」とはその当て字)なのである。
 それというのは、ブッダは、人生最後の旅の中で、愛弟子のアーナンダに向けて、次のような驚くべき言葉を発したという。

 「比丘(びく)サンガが私に何を求めるというのか。私は一切の隔てなく、すべての法を説いた。なにかを弟子に隠すような師匠の握り拳などない。私を指導者だと思ってはいないのだから、なにかを命じることなどない。私はもう80歳になり、身体も弱った。あらゆるものごとの特性に心を向けず、一部の感受を消し去り、特性のない心よ三昧(さんまい)に入ると、身体は穏やかな苦しみのない状態になるのである。」(「涅槃経」)(佐々木閑(ささきしずか)「ブッダ、最期のことば」NHKの(100分de名著)、2015年4月での邦訳より引用)

 続けよう。アーナンダに対してこう述べたブッダは、「私は説くべきことをすべて説いた」と結んだ訳なのだが、ブッダが病で死んだ後の教団は一体どのようにしたらよいのだろうか。
 そこにい並ぶ弟子たちの不安を察知したのであろうか、そのあとで、ブッダはこう述べたという。

 「自分自身を島とし、自分自身を拠り所として生きよ。それ以外のものを拠り所にしてはならない。ブッダの教え(法)を島とし、ブッダの教えを拠り所として生きよ。それ以外のものを拠り所にしてはならない。」(同)

 かくて、ブッダが病で辛かろう中でも、「自身の教え」を法として守ってくれというのであるから、その中に、人にとって自分たちを超越する絶対的な存在などはいないのだからという訳なのだ。いうなれば、これは、今日でいうところの「無神論」の系列に含まれるのであろう。
 しかして、かかる「ブッダの教え」の集大成こそが「八正道」なりであることは、今日ではかなり広く知られるようになっていて、このことは、誠に喜ばしいことだと思われる。

 なお、ブッダの死後からかなりの時が経っての紀元前後、いわゆる「大乗仏教運動」が勃興し、彼の教義の有神論的な組み換えが行われた。今日私たちが日常的な拠り所としている様々な「経」の多くも、長老たちの口伝を具現化す形にて編纂されていった。


🔺🔺🔺
 それでは、これら先達の考えを私たちはどのように引き継いでゆけばよいのだろうか。興味深いことには、アインシュタインの言葉として、次のものが伝わっているという。
 「人の生き方は2種類しかない。一つは、奇跡などは存在しないと思う生き方。もう一つは、すべてが奇跡だと思う生き方。」



(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

♦️947『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカと中国との貿易戦争の現在(2018~2020)

2021-02-08 07:49:34 | Weblog
947『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカと中国との貿易戦争の現在(2018~2020)


 まずは、2019年から2020年にかけてのアメリカをめぐっての貿易を見よう。2021年2月5日にアメリカ商務省が発表した2020年の貿易統計によると、モノの貿易赤字(国際収支ベース)が、「過去最大水準」に増える傾向にあるという。

 背景には、大型の経済対策がなされたため内需にある程度の効果が出ているのに対し、世界経済はまだ全般的に回復の兆しが見られず、輸入より輸出の落ち込みが激しいことがあるという。

 それでは、国別ではどうか。その中でも、2018年以来、巷では「貿易戦争」とも言われてきたアメリカと中国との貿易は、どうなっているのだろうか。ちなみに中国は、両国がかかる理由でとみににらみ合うようになってからも、アメリカの最大の貿易相手国であり続けている。

○2018 : U.S. trade in goods with ChinaNOTE: All figures are in millions of U.S. dollars on a nominal basis, not seasonally adjusted unless otherwise specified. Details may not equal totals due to rounding. Table reflects only those months for which there was trade.
Month、Exports、Imports、Balance

January 2018、9910.2、45,749.9、-35,839.7
February 2018、9,741.8、39,0036、-29,261.9
March 2018、12,653.2、38,295.1、-25,641.9
April 2018、10510.5、38,269.4、-27,758.9
May 2018、10,396.6、43,938.7、-33,542.0
June 2018、10,858.3、44,571.2、-33,712.9
July 2018、10,156.5、47,087.6、-36,931.1
August 2018、9,280.9、47,817.5、-38,536.6
September 2018、9,732.4、49,988.1、-40,255.7
October 2019、9,187.5、52,170.1、-42,982.6、
Novemver 2018、8,650.9、46,445.7、-37,794.8
Decemver 2018、9,210.5、45,906.3、-36,695.9

TOTAL 2018、120,289.3、539,239.1、-418,953.9

🔺🔺🔺

○2019 : U.S. trade in goods with China
NOTE: All figures are in millions of U.S. dollars on a nominal basis, not seasonally adjusted unless otherwise specified. Details may not equal totals due to rounding. Table reflects only those months for which there was trade.


Month、Exports、Imports、Balance、単位は100万ドル

January 2019、7,105.1、41,514.4、-34,409.3
February 2019、8,083.3、33,154.9、-25,071.6
March 2019、10,574.9、31,175.6、-20,600.6
April 2019、7,883.0、34,682.7、-26,799 6
May 2019、9,069.4、39,173.4、-30,103.9
June 2019、9,166.7、38,967.6、-29,800.4
July 2019、8,694.7、41,449.2、-32,754.9
August 2019、9,415.6、41,151.1、-31,735.
September 2019、8,597.3、40,165.5、-31,568.2
October 2019、8,851.2、40,114.9、-31,263.7
Novemver 2019、10,103.3、36,436.6、-26,333.3
Decemver 2019、8,903.0、33,665.5、-24,762.6

TOTAL 2019、106,447.3、451,651.4、-345,204.2


🔺🔺🔺

○2020 : U.S. trade in goods with China
NOTE: All figures are in millions of U.S. dollars on a nominal basis, not seasonally adjusted unless otherwise specified. Details may not equal totals due to rounding. Table reflects only those months for which there was trade.


Month、Exports、Imports、Balance、単位は100万ドル
January 2020、7,215.3、33,280.6、-26,065.3
February 2020、6,815.0、22,813.1、-15,998.1
March 2020、7,971.9、19,805.4、-11,833.5
April 2020、8,604.7、31,070.8、-22,466.1
May 2020、9,641.7、36,598.2、-26,956.5
June 2020、9,242.2、37,639.5、-28,397.2
July 2020、9,037.0、40,657.3、-31,620.2
August 2020、11,036.1、40,816.4、-29,780.4
September 2020、11,536.8、41,208.3、-29,671.6
October 2020、14,723,0、44,828.0、-29,780.4
Novemver 2020、14,179.3、44,855.5、-30,676.2
Decemver 2020、14,645,5、41,875.9、-27,230.4

TOTAL 2020、126,648.5、435,449.0、-310,800.5

🔺🔺🔺
総計のみ表示しておこう。

TOTAL 2018、120,289.3、539,239.1、-418,953.9
TOTAL 2019、106,447.3、451,651.4、-345,204.2
TOTAL 2020、126,648.5、435,449.0、-310,800.5
 要するに、2018~2020年の間に、108,153.4/418,953.9=0.25815なので、約25.8%だけ貿易収支の赤字が改善した訳だ。

(上記データの出所は、次の通り。You are here: Census.gov › Business & Industry › Foreign Trade › U.S. International Trade Data)


 また、2020年の物品とサービスの貿易(対世界)ということでは、こうなっている。

「For 2020,the goods and services deficit incresed $ 101.9 billion,
or 17.7 percent ,from 2019. Exports decreased $ 396.4 billion or 15.7%.Imports decreased $294.5 billion or 9.5%.」

(こちらのデータの出所は、次の通り。You are here: Census.gov › Business & Industry ›Foreign Trade › U.S. International Trade Data」



🔺🔺🔺



(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

新○258の2『自然と人間の歴史・日本篇』鳥羽伏見の戦いと江戸開城、上野の戦い(戊辰戦争前編、1868)

2021-02-07 19:11:11 | Weblog
258の2『自然と人間の歴史・日本篇』鳥羽伏見の戦いと江戸開城、上野の戦い(戊辰戦争前編、1868)

 まずは、戊辰戦争(ぼしんせんそう)とは、1868年(慶応4年/明治元年)1月に勃発した、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに、1869年(明治2年)の「箱館戦争」(五稜郭の戦いとも)にて終結するまでの1年以上にわたり行われた。  
 広い意味でいうと、旧幕府軍と、薩摩藩・長州藩を中心とする「新政府軍」との間で争われた一連の戦争のことだ。なお、戊辰戦争という名称は、鳥羽・伏見の戦いが起こった年の干支が、旧暦の「戊辰」の年だったことに由来する。

 1867年(慶応3年)10月14日、江戸幕府第15代征夷大将軍の徳川慶喜が朝廷に政権を返上した。その本質は、資産と武力を保持しつつ一旦退くことで面目を回復し、やがて新政府を牛耳ろうとねらったものといえよう。

 同年12月9日には、王政復古の大号令が発せられた。もう天皇を頂点とする王政の国に復帰したのであるから、徳川の世は終わった、というのである。

 その後、徳川慶喜は京都から大坂へと退く。その一方で、幕府の軍勢は大坂から京へと進軍した。そのため、京の伏見では、幕府軍と薩摩藩を中核とする新政府軍の勢力が拮抗することになり、一触即発の緊張が高まっていた。

 明けて1868年1月27日(慶応4年1月3日)、伏見上鳥羽の小枝橋で戦端が開かれた。現在の城南宮(京都市伏見区中島鳥羽離宮町)の西方、鴨川にかかる小枝橋のたもとにて、両軍の戦いの幕が切っておろされた。

 双方の戦力については、新政府軍の5千に対し、旧幕府軍は1万5千であり、かなりの数の開きがあったものの、統率力は前者の方が上回っていた。
 後者だが、先陣は会津、桑名藩、旧幕府からの歩兵隊、それに新撰組などであったという。しかし、後続の各藩からの兵隊は、各藩寄せ集めの程にて、横の連携は充分ではなく、士気も盛んとは言いにくい状態であったようだ。

 あくる1月28日、幕府軍の戦線は、伏見桃山からは南西側の淀(京都市伏見区淀、現在の京阪本線淀駅の西南方向にある)付近まで後退した。当初は優勢だった幕府軍は劣勢に傾いていった。

 1月29日には、そもそも幕府軍本営のあった淀城からして、城主(譜代の淀藩・稲葉氏)不在のところ、留守役の家臣たちはこのまま幕府軍に付いてよいものか、新政府軍に付くか、日和見(ひよりみ)の状態に陥っていた。

 同1月29日、鳥羽と伏見で敗北した旧幕府軍は淀城に入ろうとしたものの、淀藩から入城を拒否されてしまう。それというのも、1月4日には尾張徳川家の徳川慶勝から「中立を守るように」と、また三条実美からの出頭命令も受けていたので、国家老たちは、日和見(ひよりみ)を決め込んだのだ。

   そんな中での1月30日、新政府軍側から皇軍であることを示す「錦の御旗」がひるがえった。先に旧幕府軍が大阪城に退いたのを知った朝廷の岩倉具視(いわくらともみ)らは、薩摩・長州側の勝利であると認識、彼らの側を官軍、旧幕府軍を賊軍と断定の上、急遽もしくは前々からの示し合わせであろうか、「錦の御旗」を官軍に与える。


 そのことにより、日和見だった各藩は雪崩を打つように新政府軍側に恭順していく。かかる情勢が支配的となって幕府軍は敗走、大坂城に退く。

 徳川慶喜は城内に立てこもって戦う、と諸藩の兵たちを鼓舞したのもつかの間、夜陰に紛れてか自軍を置き去りにし、大阪湾天保山沖合いに停泊、控えていた幕府の戦艦・開陽丸に乗船し、江戸へと逃れた。

 これにびっくり仰天したのが旧幕府軍で、総大将が真っ先に戦線を離脱したのに、一朝に崩壊してしまったのは致し方あるまい。かくして、鳥羽・伏見の戦いは、急転直下、終結し、旧幕府軍は散り散りになっていく。

 その後のことだが、江戸に帰った元将軍慶喜はどのようにふるまったのであろうか。一説には、こうある。

 「江戸城に帰還した慶喜(よしのぶ)は、抗戦と降伏の間を揺れ動いていた。フランス公使ロッシュは、慶喜に再起を勧告した。また勘定奉行小栗忠順(おぐりただまさ)は、卓抜な作戦計画を立てて慶喜に献策した。すなわち、東海道を海岸沿いに東進中の天皇政府軍を優秀な海軍力で横撃して撹乱し、さらには敵軍を関東平野に誘い入れ、箱根峠を封鎖して袋の鼠にし、包囲殲滅せよとの戦略だった。

 小栗の策が実行されたら、形勢は再逆転したかもしれない。したがって鳥羽・伏見戦後といえども、ただ徳川家が最終的に天下を失うかどうかは未確定だったのである。しかし、いずれも慶喜の容れるところとはならなかった。」(毛利敏彦「幕末維新と佐賀藩―日本西洋化の原点」中公新書、2008)

 ともあれ、慶喜からはもはや確固たる戦意はなく、時の流れにむ身をまかせていくしかなかったのではないか。それが、時勢というものであったのだろう。
 そのまま謹慎に入り、勝海舟が後の始末を頼まれた形となる。その勝は、征討軍の参謀・西郷吉之助と談判し、無抵抗での江戸開城と引き換えに慶喜の助命を求める。軍に帰った西郷の進言により、幕府側の申し出を受け入れることとし、開城が滞りなく行われた。
 くりかえすが、德川慶喜は、新政府に対する恭順の姿勢を表し、上野寛永寺に蟄居した。
 そこで、おそらくはこれに幾分かは不満を持ちながらも、慶喜を守ろうとする幕臣の一部らが寄せ集まって、上野にこもる、これを彰義隊という。
  幕府により江戸市中取締の任を受けて治安維持をおこなうものの、新政府軍は潰す機会を狙っていたのだろう。いざこいが絶えなかった。
 そういうことだから、慶喜が許されて上野から水戸へ移る。そこで、双方の間で戦いがおきるのだが、新政府軍は攻めあぐねる中、早期の決着をめざして、大村益次郎(村田蔵六)を呼ぶ。その大村は、元はといえば長州の村医者にして、緒方洪庵の塾に学び、宇和島藩、それに幕府に用いられていたのが、長州に呼び戻された訳だ。
 そこへ持ってきて、幕府の長州征伐のおりに、石州口で幕府軍をやぶるのに大功があったのが、戦略的な思考にたけた大村に他ならない。
 かくて、大村は倒幕軍の総司令官となり、彼の指揮する新政府軍が上野の山に立てこもる彰義隊に総攻撃を開始し、わずか1日で彰義隊は壊滅した。
 その時活躍したのが、山を死守する旧幕府軍に対して、本郷の高台からアームストロング砲などであった、すなわちこれは、早々の近代戦なのであったろう。
 かくて、銃火に勝る新政府軍の前に敗退し、江戸幕府の実質的支配がここに終わる。

☆☆☆☆☆
 
 さても、作家の大岡昇平(おおおかしょうへい)は、そのエッセイ「母成峠(ぼなりとおげ)の思い出」(「太陽」1977年6月号所収)の中で、この戦争というものへの慨嘆であろうか、それとも挽歌であろうか、こう述べている。
 「私の戊辰戦争への興味は、結局のところ敗れた者への同情、判官びいきから出ている。一方、慶応争間からの薩長の討幕方針には、胸糞が悪くなるような、強権主義、謀略主義がある。それに対する、慶喜のずるかしこい身の処し方も不愉快である。その後の東北諸藩の討伐は、最初からきまっていたといえる。(中略)
 多くの形だけの抵抗、裏切りがでる。あらゆる人間的弱さが露呈する。
 戊辰戦争全体はなんともいえず悲しい。その一語に尽きると思う。」
 
 
(続く)

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

♦️350の6『自然と人間の歴史・世界篇』ラジオの発明と普及(1906~1945)

2021-02-07 10:02:17 | Weblog
350の6『自然と人間の歴史・世界篇』ラジオの発明と普及(1906~1945)

 カナダ出身のフェデッセンデン(1866~1932)は、1886年にニューヨークへ移住し、発明家のトーマス・エジソンの経営する工場に入り、科学技術を身に付け、エジソンのアシスタントとなる。
 1900年には、先達のマルコーニらが開いた無線技術を基礎に、本格的なラジオ放送の実現を目指す。そういう意味では、ラジオというのは、19世紀からあった海底ケーブル技術にあきたらず、人々の頭の中で要望が浮かんだ船舶用無線のあたりから模索発展していったのではないだろうか。

 そして迎えた1906年のクリスマス・イブに、マサチューセッツ州の自宅から、ラジオ放送を開始するのに成功する。
 そのためには、彼がそれより前に、G.E(ジェネラル・エレクトリック)社に開発依頼していた80Hzの高周波発電機が必要であった。フェッセンデンからの依頼を受けたGE社のアレキサンダーソンらは、苦心して、350kHzの高周波を得ることに成功、同年秋には、75kHzで500ワットの出力が得られたという。

 次には、この伝搬性の高い連続高周波を音声信号で振幅変調(アンプリチュード・モジュレーション:略してAM)し、連続電波として発射することに成功し、その届いた距離は320キロメートルだったという。

 なお、振幅の仕組みをいうと、3極真空管の金属板とフィラメントの間に格子(はしご)状の電極(グリッド)を置いてある。そして、そこに電子と同じマイナスの電圧をかけることで、フィラメントと金属板の間で流れる電流を調節する。これだと、グリッドにかけるマイナスの小さな電圧変化に反応して、電流は大きく変わるので、その変化を利用して電気信号の増幅を行う。

 フェッセンデンの実験成功以来、世界各地で試験的なラジオ放送が取り組まれていく。1920年には、アメリカ・ピッツバーグのKDKAというラジオ放送局が世界初の商業ラジオ放送を開始する。ただし、この時はまだ、電波のエネルギーだけで動く鉱石式ラジオが主流であって、真空管を使ってのラジオは世の中に出始めたばかりであった。


 次には、受信側のラジオの構造及びその機能をごく簡単にみよう。まずは電波が空中を飛んできて、1番目の入口にアンテナがあり、電波がこのアンテナに当たると、微少な電気が発生する。 
 その2として、同調回路がある。これは、アンテナで発生した微弱電気には、さまざまな種類の電波が混ざり合っていて、その中から目的とする周波数の電波を選択する。
 その3として、受信側で選択された検波回路へ行く。この回路に入った電波は、こちらでは、いわば、電波と言うトラックに音声という荷物が乗っているものをおろされると、説明されている。

 こちらでは、真空管(後の時代にはなると、ゲルマニウム・ダイオード)という部品が使われ、音声が乗った電波がここを通ると音声として出てくる。さらに4として、出力回路で出力調整が行われて、人の耳にそれなりの音声として届くという訳だ。

 それからは、細部の工夫が重ねらられていく。例えば、1924年に製造のアメリカ製ラジオ「ARー812型」がRCA社により発売され、好評を博したという。

 やがて、第二次世界大戦が始まると、ラジオは各国政府の政策に欠かせないものとなっていく。その頃になってのラジオといえば、中を開けば真空管が乱立するものとして、製品は規格化され、高級なものから、性能がやや劣るものまで、幅広く世の中に出回っていく。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

♦️343の4『自然と人間の歴史・世界篇』ロンドン株式取引所(1901年時点での状況)  

2021-02-01 21:47:55 | Weblog
343の4『自然と人間の歴史・世界篇』ロンドン株式取引所(1901年時点での状況)
 
 顧みるに、その頃の資本主義の最先端としてのロンドン株式取引所(現在のロンドン証券取引所( London Stock Exchange, LSEの最初の形態)は、1801年に設立された。所在は、シティ・オブ・ロンドンのセント・ポール大聖堂に近い、パターノスタースクエア。

 この組織は、その後、大英帝国の世界覇権への道と平行して発展していく。

 それの主な機能としては、国内外の資金を集め、それを様々な金融商品に結びつけ、もってイギリスを中心とした資本主義の利便を図ることである。

 では、どのような運営が行われていたのかというと、その場で取引できるのは会員に限られていて、一つはジョッパー、もう一つはブローカーといった。
 ジョッパーというのは、自己の計算で取引所内部でのみ売買取引を行う。相場付けを行うことが期待される。それというのは、彼らの取引相手は、後にみるブローカーまたは他のジョッパーに限られていて、外部の投資家との直接取引は禁止となっていた。
 これに対し、もう一方のブローカーは、取引所内のジョッパーとその外部の投資家大衆との間を取り持つ、すなわち、投資家から売り買いの注文をとり、市場での売買を行うということで、両者の媒介を任務としていた。
 なお、それから大いなる時が経過しての2007年以降の同所の運営は、ロンドン証券取引所グループ(LSE: LSE)が行っている。

 そして迎えた1913年12月31日でのロンドン株式取引所の有価証券の額及び構成が、現代に伝わっている(数字の引用は、生川栄治「イギリス金融資本の成立」有斐閣、1956)

 それによると、同時点での有価証券高の総額約112億6246万ポンドのうちで、公債として総額は約50億3613万ポンドにして、一番の大きさの有価証券であり、その内訳はイギリス国債・地方債が約12億9011万ポンド、植民地債が約5億3591万ポンド、それに外債として約32億1010万ポンドとなっていた。
 次にくるのか鉄道関係であり、こちらの総額約41億4785万ポンドの有価証券があり、その内訳は鉄道株式と社債(連合王国)が約12億1734万ポンド、インドおよびイギリス属領向けの鉄道関係に約4億6478万ポンド、アメリカ鉄道向けの株式と社債に約17億2961万ポンドが、さらにそれら以外の外国鉄道向けとして約7億3613万ポンドが用立てられていた。
 さらに、一般産業の部門で、総額にして20億7848万ポンドの有価証券がある。こちらの内訳でいうと、出回っている有価証券の多いものから商工業等に4億3863万ポンド、鉄と石炭と銅の資源関係において3億2976万ポンドが、その次には銀行・割引会社の分ということで2億9438万ポンドが割り当てられていたとのこと。


(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆