♦️815『自然と人間の歴史・世界篇』現代における宗教・倫理観(諸派にみる「奇跡」を巡る解釈を巡って)

2021-02-09 22:16:02 | Weblog
815『自然と人間の歴史・世界篇』現代における宗教・倫理観(諸派にみる「奇跡」を巡る解釈を巡って)


 まずは、キリスト教でいうところの「奇跡」の物語から、しばし紹介しよう。取り上げたいのは、キリストが死後しばらくして生き返ったという話である。

 それというのも、新約聖書の記述から、引用すると、こうある。

 「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
 そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。
彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。
 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
 それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。
彼女たちは驚いた。
青年は言った。
「驚いてはいけません。
あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。
あの方はよみがえられました。ここにはおられません。
ご覧なさ い。ここがあの方の納められた所です。
ですから行って、お弟子たちとペテロに、
「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。
前に言われたとおり、そこでお会いできます。」と言いなさい。」(マルコによる福音書16章 1-7節)

 ここには、3日目にキリストその人が命を吹き返したことが、記されているものの、それにちなんだ「イースター」(現在では、復活祭を意味する)という言葉は出てこない。その由来としては、ゲルマン神話中で「エオストレ(Eostre)」という豊穣の女神であって、ゲルマンの社会と関係のなかったキリストとの直接的なつながりはなく、そのかぎりでは異教の祭りが、後代のゲルマン人にキリスト教が浸透する過程で、聖書的に贖われたと考えられているようだ。

 ちなみに、サイト名「yougob.co.uk/」のトピックス欄中に「Philosophy & religion」という項目があり、「Jesus, his birth and resurrection: fact or fiction?」(December 29, 2020, 7:46 PM JST)なる記事として、こんな調査結果を伝えている。

「Three in ten people in Britain say that the Biblical portrayal of Christmas is accurate. Just over a quarter of Britons believe that Jesus was ‘the son of God’

The stories of Christmas and Easter form the foundations of the Christian religion and beliefs. A YouGov study on the perception of Christian religious holidays has looked into how familiar Britons are with the Biblical accounts of events celebrated on Christmas and Easter, whether they believe them to be accurate, and what they think about the identity of Jesus Christ.

The Biblical accounts of Jesus’ birth and resurrection
Seven out of ten (69%) Britons say they are ‘very familiar’ with the story Jesus’ birth and a further quarter (26%) said they are ‘somewhat familiar’.

When it comes to Easter – the story of Jesus’ resurrection – six in ten (61%) say they are very familiar with it, and another three in ten (32%) are somewhat familiar.

For both stories, the percentages of those who are familiar with them are almost the same for Christians, non-Christians and those who don’t identify with any religion.

 これによると、イギリスの人々のキリスト像というのは、クリスマスやイースターの行事などで相当程度に親密感(very familiar’ with)が培われてきているようである。しかも、かなりよろしいような筋書き(奇跡など)として幅広く受け入れられているのが窺えるのではないだろうか。

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 次に紹介したいのは、倫理ということであろうか、孔子の言葉に、こうある。

○「子不語怪力乱神。」(述而第七)

 その書き下し文は、次の通り。


「子は怪力乱神を語らず。」(「論語」雍也第六)

○樊遅問知。子曰、「務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣」。
問仁。曰、「仁者先難而後獲。可謂仁矣。」(雍(よう)也第六)


 その書き下し文は、次の通り。


「樊遅(はんち)知を問ふ。子曰く、「民の義を務(つと)め、鬼神(きしん)を敬して之(これ)を遠ざく。知と謂(い)ふ可(べ)し。」

○「季路問事鬼神。
子曰、「未能事人、焉能事鬼」。
曰、「敢問死」。曰、「未知生、焉知死。」(「論語」第六先進)

 その書き下し文は、次の通り。


「季路(きろ)鬼神に事(つか)ふることを問ふ。
子曰く、「未だ人に事ふること能(あた)はず、焉(いづ)くんぞ能(よ)く鬼(き)に事へん」。
曰く、「敢(あ)へて死を問ふ」。曰く、「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん」と。」

 これらから窺えるものとしては、孔子は、奇跡などの非日常的な事象については、多くを語りたがらなかった。わけても、「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん」というあたりは、今日でいう実証主義にも似ているのではないか。もっというならば、やたらと演繹(えんえき)的な思考をする向きには、はっきりと距離を置いて、それらを打ち消すねらいさえ込められているように感じられるのだが。

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 それから、およそ「奇跡」という非日常的な現象に対して、独特な見解を表明しているのが、ブッダ(「仏陀」とはその当て字)なのである。
 それというのは、ブッダは、人生最後の旅の中で、愛弟子のアーナンダに向けて、次のような驚くべき言葉を発したという。

 「比丘(びく)サンガが私に何を求めるというのか。私は一切の隔てなく、すべての法を説いた。なにかを弟子に隠すような師匠の握り拳などない。私を指導者だと思ってはいないのだから、なにかを命じることなどない。私はもう80歳になり、身体も弱った。あらゆるものごとの特性に心を向けず、一部の感受を消し去り、特性のない心よ三昧(さんまい)に入ると、身体は穏やかな苦しみのない状態になるのである。」(「涅槃経」)(佐々木閑(ささきしずか)「ブッダ、最期のことば」NHKの(100分de名著)、2015年4月での邦訳より引用)

 続けよう。アーナンダに対してこう述べたブッダは、「私は説くべきことをすべて説いた」と結んだ訳なのだが、ブッダが病で死んだ後の教団は一体どのようにしたらよいのだろうか。
 そこにい並ぶ弟子たちの不安を察知したのであろうか、そのあとで、ブッダはこう述べたという。

 「自分自身を島とし、自分自身を拠り所として生きよ。それ以外のものを拠り所にしてはならない。ブッダの教え(法)を島とし、ブッダの教えを拠り所として生きよ。それ以外のものを拠り所にしてはならない。」(同)

 かくて、ブッダが病で辛かろう中でも、「自身の教え」を法として守ってくれというのであるから、その中に、人にとって自分たちを超越する絶対的な存在などはいないのだからという訳なのだ。いうなれば、これは、今日でいうところの「無神論」の系列に含まれるのであろう。
 しかして、かかる「ブッダの教え」の集大成こそが「八正道」なりであることは、今日ではかなり広く知られるようになっていて、このことは、誠に喜ばしいことだと思われる。

 なお、ブッダの死後からかなりの時が経っての紀元前後、いわゆる「大乗仏教運動」が勃興し、彼の教義の有神論的な組み換えが行われた。今日私たちが日常的な拠り所としている様々な「経」の多くも、長老たちの口伝を具現化す形にて編纂されていった。


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 それでは、これら先達の考えを私たちはどのように引き継いでゆけばよいのだろうか。興味深いことには、アインシュタインの言葉として、次のものが伝わっているという。
 「人の生き方は2種類しかない。一つは、奇跡などは存在しないと思う生き方。もう一つは、すべてが奇跡だと思う生き方。」



(続く)

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