♦️392の4『自然と人間の歴史・世界篇』イタリアのファシズム(国会廃止(1939)まで)

2021-02-22 16:42:14 | Weblog
392の4『自然と人間の歴史・世界篇』イタリアのファシズム(国会廃止(1939)まで)

 イタリアのファシズムの歴史は、1919年3月の戦闘ファッショ団の結成に始まる。1920年9月には、トリノ地方の金属産業労働組合の占拠が起こる。これにより、それまでの保守連合のニッティ政権が倒れ、1920年6月にはジョリッチ内閣か成立する。そして、このストライキに対して資本家側はロックアウトで対抗したことで双方の間に溝ができている件につき、軍隊と警察による労働者弾圧の見返りとして、労働者参加をちらつかせて、占拠ストライキ解除の協定を結び、資本家側に有利な決着を実現する。それに加え、同年11月以降は、ファシストの武装襲撃の活動が拡大する。

 その前の1915年5月、イタリア政府は、第一次世界大戦に参戦するのではなく、それまで中立の立場をとっていたのが、この時イギリス、フランス、それにロシア側に立って参戦に転じた。
 あわせてその少し前の1914年秋のこと、それまで反戦中立の立場で平和運動後の先頭に立っていたイタリア社会党内で、それまで党機関誌「前進(アヴァンティ)」の編集者を務めていたベニート・ムッソリーニ(1883~1945)は参戦論に成り変わり、これを問題視した党中央により除名処分をうける。

 ここで話をイタリア参戦後に戻そう。1921年1月に開催された社会党大会では、イタリア共産党が結成される。5月には総選挙が実施され、ボノミ内閣が成立する。8月には、ファシスト突撃隊と人民突撃隊とが、武力衝突を停止する協定を締結するも、9月にはファシスト側が同協定を破棄する。さらに11月には、戦闘ファッショ団の第三回大会が開催され、「ファシスト党」と党名を改称する。この時は、ファクタ内閣。

 1922年8月には、「政治ゼネスト」が行われる。そして迎えた10月3日、ムッソリーニは、ファシズスト義勇軍の創設を宣言する。24日のファシスト党ナポリ集会に臨んだ彼は、「政府がわれわれに与えられるか、われわれがローマへ進軍して政府を乗っ取るか、いずれをえらぶべきかの時期がきた。(中略)その進軍は時間の問題であろう、」と演説した。
 これに煽(あお)られたファシスト義勇軍は、大挙してローマを目指して進軍を開始する。その際の彼らの心得としては、政府軍に敬意を払うこと、働く人々は、4年もの無政府状態をもたらした旧支配階級に反対して立ち上がった自分たちファシストを恐れるべきでないという宣伝を行うとともに、国王側には王制支持の態度をよそおうという用意周到さであった。
 これに対して、ファクタ内閣は戒厳令を敷き、政府軍に彼らを鎮圧させようとするのであったが、王はそのための署名を拒否した。その実、29日には、ファシスト党に組閣を命じる。
 これを受けたファシスト党よ主導により、連立内閣が発足する。その構成としては、ファシスト党、人民党、ブルジョア派(民主派、自由派)、国家主義党、民主社会派、それに無所属を束ねていた。その狙いとしては、社会党と共産党を排除することであった。
 この組閣の後に、ムッソリーニらは、新内閣の独裁を1年1か月半の期限つきで認める法案を国会に提出し、議会に認めさせる。1922年11月16日には、これが公布された、それには、こうあった。

 「税法を制定し、国家諸機関の権限を制限し、公務員を任免し、産業を興(おこ)し、国家の経費を節減するために、1923年12月31日まで、それに必要な措置をとる権能を与えられる。この措置は、そのみ法律としての効力をもつ。」

 これにより、ローマを支配下におくのに成功し、ムッソリーニ内閣は全権を奮うにいたる。12月には、ファシスト大評議会が設置される。

 そのファシスト党だが、自らの立ち位置をわかっていて、多数派工作を行う。イタリア労働総同盟系以外の組合に働きかけ、工業労働省組合団体など5団体が1922年1月に全国組織「組合団体総同盟」をつくるのを誘導した。こうした下地の上に、1923年12月には資本家団体イタリア工業連盟との間に、政府主導により両者が協調していくことを確約した協定を結ばせる。
 その他にも、1923年2月には、競合する中間政党の国家主義党との合同を働きかけ、これを実現することにより保守本流の官僚や独占資本家の支持も取り付けていく。ファシスト党は、労働者や農民、小市民の多かったのが、これ以後は急速に資本家との連合へと傾斜していく。
 さらに人民党に対しては、邪魔だてをする目的で同党の法王派をそそのかし、同党の中にいる反ファシズム勢力に打撃を与えるのに成功し、同党の牙を奪うのに成功した(詳しくは、塚本健「ファシズム」日本社会党労働大学新書、1986)。

 1923年7月には、選挙法が改正される。その内容は、最多得票の政党が議席の3分の2を獲得し、それ以外の政党は残り3分の1を得票数に応じて議席を割り当てられるという、破天荒なものであった。

 その翌年の1924年4月の総選挙では、ファシスト党が第一党にのし上がる。この選挙でのファシスト党の得票率は66.3%にして、彼らは全535議席のうち374議席を獲得した。ちなみに、最大の競争相手の社会党と共産党に対しては、選挙期間中に野放しのテロリを含んだ弾圧が加えられたという。
 6月には、マテオッティ事件が起こる。アヴェンティーノ連合が、国会をボイコットする。

 1925年1月には、社会党、共産党、そして民主主義諸党にたいするあからさまな弾圧が始まる。10月には、ヴイドーニ宮協定。11月になると、反ファッショ議員が、その議会資格を剥奪される。

 明けて1926年には、議会を無用にする運動が国内を席巻していく。11月には、ファッシスト党以外の政党に解散命令が出される。政権は、ここに他政党を解散させ、独裁を完成させた。イタリア労働総同盟については、自主解散となる。

 1927年7月には、労働憲章が発布される。その第三条は、こうなっている。

 「労働組合、職業団体を組織することは自由だが、法律上承認され国家統制下にある組合だけが、それに加入している同一部門のすべての雇用主、労働者を代表し、国家またはすべての他の職業団体にたいして、その職業利益を守り、その部門のすべての者を拘束する労働協約をむすび、彼らから組合費をとり、全体の利益に合致した行動をする権利をもつ。」

 続いての第6条としては、こうある。
 
 「組合団体は生産組織であり、生産の利益は国家の利益であるから、組合団体は法律により国家機関と認められる。」

 ということで、もはや、ファシズムに立ち向かう、これといった勢力は国内にいなくなった。1928年には、ファシズム大評議会が国家の最高機関となる。具体的には、1929年12月に制定の法律で、ファシズム大評議会の構成が決まる。それによると、首長や閣僚、上下両院議長、組合団体省次官、外務次官、内務次官、外務次官、国民義勇軍司令官、ファシスト党幹部、旧閣僚その他となっており、いわば党と政府が一体化した訳だ。
 一方、国会は、1929年3月の総選挙以降は、その議員の全員がファシスト党員からの者たちで占められることで、いわば翼讃議会となり変わる。

 そして迎えた1939年10月には、国会そのものが廃止となる。かかる議会制度の廃止により、イタリアの議会制度は、事実上の終止符をうたれるのである。

(続く)

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