261の5『岡山の今昔』岡山人(20世紀、滝川幸辰)
滝川幸辰(たきかわゆきとき、1891~1962)は、教育家にして、刑法学者だ。日本刑法学会の初代理事長をつとめた。
岡山の生まれ。1915年に、京都帝国大学独法科を卒業する。学問優秀にて、そのまま大学に残って研究生活に入る。1918年同大学助教授に、1924年には教授となる。
おりしも、日本はファシズムにのめり込み始めていた。やがての1932年には、満州事変というように、世の中がガラリと変わっていく。
そして迎えた1933年、その学びの殿堂にいる滝川を標的にした事件が起こる。
滝川の著書の一つである「刑法読本」や講演内容がの思想的な偏りなどが問題視され、文部大臣の鳩山一郎から辞職要求が出されたのだ(その次には、休職処分に切り替えられたという)。
滝川幸辰(たきかわゆきとき、1891~1962)は、教育家にして、刑法学者だ。日本刑法学会の初代理事長をつとめた。
岡山の生まれ。1915年に、京都帝国大学独法科を卒業する。学問優秀にて、そのまま大学に残って研究生活に入る。1918年同大学助教授に、1924年には教授となる。
おりしも、日本はファシズムにのめり込み始めていた。やがての1932年には、満州事変というように、世の中がガラリと変わっていく。
そして迎えた1933年、その学びの殿堂にいる滝川を標的にした事件が起こる。
滝川の著書の一つである「刑法読本」や講演内容がの思想的な偏りなどが問題視され、文部大臣の鳩山一郎から辞職要求が出されたのだ(その次には、休職処分に切り替えられたという)。
それたるや、本人やその同僚たち、ひいては大学当局にとっては予想だにしないような出来事であったろう。さらにいうと、当時、治安維持法改悪の動きがあり、これに反対するようなあらゆる動きを阻止する話になっていた。
当時の京大法学部の中には、自由主義分子が沢山いたのだろう。これは、学問の自由に対する公権力による弾圧にほかならない。そこで、これを守る見地からこれに反対する学者も多かった。
しかし、結局は、政府の力に押切られた形となった。これがいわゆる滝川事件である。
その後の滝川だが、第2次世界大戦後に京都大学に復帰する。そして、法学部長を1950年までつとめる。
その学風としては、刑法における客観主義を徹底した。代表的な著書としては、前述の「刑法読本」(1932) や「犯罪論序説」 (1938) などがある。
また、このほかに多くの随筆集があるというのだが。
(続く)
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