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□57『岡山の今昔』明治時代の岡山(自由民権運動)

2016-12-18 21:24:10 | Weblog

57『岡山(美作・備前・備中)の今昔』明治時代の岡山(自由民権運動)

 その頃までの明治政府の主要ポストは、薩長土肥の出身者がほぼ独占していた。そこでこれによる専制政治を批判するとともに、早期の国会開設、地租軽減、政治的自由の拡張
などを求めて国民的政治運動が持ち上がった。
 ゆえに、1874年(明治7年)1月12日、板垣退助ら民選議員が、当時の左院(当時の立法機関)民選議員設立建白書を提出した。これに始まる国会開設を初めとする民主化要求を掲げた運動が全国的にひろがっていく。1880年(明治13年)には、国会期成同盟が成立した。当時の板垣(1881年には自由党を組織)らの念頭にあったのは、いわゆる豪農や豪商、元士族の富裕層を中心に構成される議会であった。元士族においては、1877年(明治10年)の西南戦争の敗北以来、その没落が決定的になっていった。この運動は、時を経るに従い、新興ブルジュアジー(産業資本家階級)や一般農民の一部を巻き込んで、大隈重信(1882年に立憲改進党を組織)らの自由主義的な運動にも発展していく。やがて1890年の国会開設に繋がるこうした一連の運動の流れを、「自由民権運動」と呼ぶ。
 1876年(明治9年)、北条県は合併で岡山県となったものの、県知事の権限が強く、政府の法律や規則などに縛られ、国への政治参加も限られていた。全国の自由民権運動の高揚に伴って、人民の政治的権利と人々の生活向上の願いが聞き入れられない状況が露わとなるに従い、岡山でも早期国会開設請願の署名運動などが進められていく。その岡山での自由民権運動の盛り上がりを伝えるものに、大衆演説会があった。1880年(明治13)11月22日付け『岡山新聞』に、こうある。
 「作州津山辺では、市中を巡航せらるる一本筋の巡査のうちに、(中略)市中にて国会開設のことや、新聞雑誌の話などをしている者があると、これこれ其の方共は今何を話していたか、けしからぬ。隠さずと申し上げよ、とて、其の話していた事柄を聞糾(ききただ)し、住所姓名までたづねて手帳にひかえらるる」(『津山市史』第六巻)。
 続く1882年(15年)4月27日、津山の二階町で開かれた自由大親睦会という名目での集会が、時の集会条例に抵触するとして即刻解散の憂き目にあう。のみならず、これに参加していた自由党美作部の党員が警察に連行されたとある(4月30日付け『山陽新聞』)。
 ともあれ、こうして岡山の地では自由を求める運動が、官憲の望外に遭いながらも続けられていった。そして迎えた1890年(明治23年)7月の第1回の衆議院選挙で、岡山は7つの選挙区に分かれていた。美作でいうと、第六区からは立石岐(たていしちまた)、第七区からは加藤平四郎が当選した。同選挙後の1890年9月、立憲自由党が結成された。その旗印としては、皇室尊栄・民権拡張・内政簡略・対等条約・政党内閣実現などであった。翌1891年(明治24年)、立憲自由党は、岐阜で運動中に狙撃された、あの「板垣死すとも自由は死なず」で有名な板垣退助を総理とし、自由党と改称するに至る。
 1878年(明治11年)には、府県会規則が制定された。同時に、郡区町村編成法、地方税規則が制定された。これらにより選挙による地方議会が発足したのである。選挙のやり方は、記名投票にして、選挙権は満20歳以上の男子で、地租5円以上を納める者に与えられた。県議会議員選挙規則も定められ、その翌年に県議会の選挙が実施された。とはいえ、ここに女性の参政権はおろか、男性も一定以上の地租を定める者でなければ、政治に預かれない、次の仕組みとなっていた。
 「一、議員は郡区ごとに選挙で決める。
一、選挙人は、満二〇歳以上の男子で、その郡区内に本籍を定め、その府県内で地租五円以上を納めている者
一 被選挙人は、満二五歳以上の男子で、その府県内に本籍を定め満三年以上居住し、その府県内で地租一〇円以上を納めている者」(出所は、津山市史編さん委員会「津山市史」第六巻、明治時代)
 1900年(明治33年)、衆議院議員の選挙権はその後、1900年(明治33年)に「直接国税10円以上の納税者」に改正され、有権者数はそれまでのほぼ2倍の98万人(2.2%)に拡大されたのだ。

(続く)

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