◻️64の2『岡山の今昔』岡山空襲と津山城模擬天守の取り壊し(1945)

2021-04-16 06:09:02 | Weblog
64の2『岡山の今昔』岡山空襲と津山城模擬天守の取り壊し(1945)

 では、地方の空襲はどうであったのだろうか、ここでは、1945年6月の岡山大空襲を伝える、当時、教師であった片山嘉女子の回想を紹介したい。

 「昭和二〇年六月二十九日午前二時頃の大空襲で岡山はひとなめであった。当時私は玉井宮の近くに住んでいた。玉井宮の上空よりB29の襲来、次から次へとくりひろげられた爆撃、住民はおののきながら大ぶとんを頭からかぶり、右往左往し逃げ続けたものだ。逃げ遅れた人達は地蔵川のほとりに、ぬれぶとんをかぶって身を守った。東山の電車筋あたりから南へ南へと火は勢を加えて燃えさかる。
 家主の奥さんと身のまわり品を持ち出し、おふとんをぬらして持ち出したものにかけ、二人でバケツで水を運び火勢を少しでも弱めようと努力しつづける。然し火勢は少しも劣えを見せず煙が目に入り思うような効果は上がらず、懸命な消火もなく隣家がやけおちやがてわが家も、見る見るうちに焼け落ちた。
 灰と化していくわが家を家主さんと共に放心して眺めていた。あたりには誰一人姿はなく、付属小学校側はまだ燃え続けている。やがて火力が弱まった頃にやっとここにある自分に気がついた」(片山嘉女子「戦前戦中戦後の教師として」:岡山県教職員組合「己無き日々ー戦争を知らないあなたよ」1982に所収、当時の筆者は、岡山市立勲小学校に勤務)。

 同じく教師をしていた小島幸枝は、焼け出された民衆が身を危険にさらしてまでも、大挙して旭川に向かったことを、次のような手記に綴っている。

 「(前略)午前二時、燈火管制の薄い光りの中で用を足しに起きた私の耳に、低いうなるような音が響きました。南の空が赤いのです。とっさに私は「空襲だ。空襲だ。」と叫びました。B29の来襲です。
 私は二歳の次男を背負い五ケ月の身重に、モンペをはき、用意の袋を持ち、夏蒲団を被り逃げました。夫と共に防空壕に入りましたが、危険と云う隣り組の班長の報せで、旭川に出ました。河原の窪地の水につかって避難しました。空から、ばらばらと間断なく落下する火の雨、油脂焼夷弾は、水面に落ちても、燃え乍ら流れて行きます。次々に爆音を立てて飛来するB29は、市の中心部を焼き、炎々とあがる火の海と化しました。蒲団から頭を出して、天満屋が焼け落ちるのを見ているうちに、鳥城が火を吹いて燃え出しました。
 河原は、避難の民衆でごった返しています。突然後方に悲鳴があがりました。直撃弾で全身炎に包まれた人が見えました。私は深く蒲団を被り祈りました。火に追われて、河へ河へと旭川は人の渦です。降りかかってくる火の弾を避けて、泣き叫び、阿鼻叫喚の地獄です。
 夜が明けて鼠色の雨が降り出しましたが火は消えません。ぶすぶすと燻り続けます。
 ずぶ濡れの身体をひきずり家の方向に歩を運びました。家がある、焼けないで、私は夫と家を捨て、焼けた街に出て身内の安否を確かめました。妹夫婦が居ません。この日以来二人は消え去ってしましいました。街には多くの焼死体が残っています。銭湯の湯舟に、各戸にある防火用水桶に、火に追われて、飛び込んだ水の中で焼け焦げていました。
 二、三日、探してもいない妹夫婦一週間も死体探しを続け、国清寺、正覚寺の境内の収容所ものぞきました。引き取り手のない焼死体が累々と集り、怖い物への無感覚でひたすら死体探しをしました。
 学校の教え子も死にました。防空壕で、道路で、家の中で、多くの子が死にました。・・・・・」(同著、小島幸枝「戦争を知らないあなたに:岡山県教職員組合「己無き日々ー戦争を知らないあなたよ」1982に所収)

 二つ目の体験談を紹介しよう。

 「1945年6月22日、水島の軍需工場地帯が、B29機の空襲をうけた時、内一機を高射砲が撃墜しました。大きな巨体がゆっくり旋回しながら落ちて行くのが、遠く離れた岡山市からも影絵のようによく見えて、町内の人たちの歓声を聞きながら、胸のすく想いがしたものでした。
 この日から一週間後の29日未明に、B29爆撃機七十機編隊の空襲で、岡山市は全市殆んどが焼失し、多くの犠牲者を出しました。吾家も石関町(注)と共に全焼してしまいました。

 空爆の前、燈火管制がきびしく暗幕を張ってやすんでいるのに、夜半に急に窓が明るく、満月の夜のように照らされて、目覚めたことが何度かありました。これは、敵の昭明弾が落された時で、これで、岡山市の市街図が明らかにされたものでしょう。
 空襲警報も出ないままに、爆撃されたため、市民の混乱は大変なものでした。
 私は三歳の長男を背負い、老母と長女を旭川の防空壕に送り込み、頭上に爆音を聞きながら、二度も家との間を往復した時の気持ちが今では一寸理解できない想い出です。」(豊田文子「戦争の、想い出」、戦争を語りつぐ岡山婦人の会「8.15前後ー戦争と私たち」)

(注)
 これにいう石関町は、現在の北区に属す。その位置は、岡山駅前から東へのびる桃太郎大通りを城下交差点からゆるい勾配の坂を登った東側から北側にあたる一帯にて、東は旭川の中洲を挟んで後楽園、西は城下筋を挟んで天神町に隣接。北隣は出石町(いずしちょう)、南は内山下(うちさんげ)、西南に表町と隣接、さらに南端には石山公園が配置される。

 なお、このアメリカによる空襲により天守と石山門を焼失する。1950年(昭和25年)には、文化財保護法の施行により、焼け残った月見櫓・西之丸西手櫓が重要文化財に指定される。

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 岡山空襲の後の津山にも、戦火が及んでくるのではないかという雰囲気が増してきたようで、折しも放置されてあった津山城模擬天守を、どうするかが取り沙汰されていく。
 この問題については、1936年3月26日~5月5日に開催された「津山市主催姫津線全通記念産業振興大博覧会」から振り返る必要があろう。
 この博覧会は、その名前の通り、姫路と津山を結ぶ姫津線の開通を間近にして、姫路での同趣旨の博覧会開催と呼応する形で開催された。
 津山でのこの催しは、今でいう鶴山公園の中に第一と第二の会場を設け、地元の行政、商工会などが参加して、一言でいうならば、その旗印は美作地区の「産業振興」をアピールするものであったようだ。
 会場には、朝鮮館や台湾館もあったりして、当時の日本の帝国主義政策の宣伝にも一役かうことで、祝賀ムードを駆り立て、世間の耳目を集めようとしていたようだ。
 前置きはこの位にしておいて、かかる会場には、開花時期を迎えた桜もさることながら、もう一つ、なんと、明治時代の初めに撤去された天守を模造してつくったのである。その実、屋根はトタン屋根ながら、僅かながら残っているということなのか、その天守らしき写真を拝見するにつけ、五層の威風堂々、立派な建物であったのは、改めていうまでもなかろう。

 それからは、日本を取り巻く戦況は、大きな山場へと向かって否応なしに進んでいく、その頂点となるのがアメリカ空軍による広島への原爆投下であった。
 では、かかる話は、その後どのような展開になっていったのだろうか、その辺りに詳しい岸本佳一氏の論考には、こうある。

 「この天守閣はいろいろな事情から昭和20年8月まで残されており、津山市民から親しまれていた建物である。昭和20年戦火がはげしくなり、軍の方から爆撃の目標となるので撤去してほしいと再三津山市に申し入れがあり、時の平松俊太郎津山市長は出来ることなら残しておきたいという気持ちを持っていたようであるが、8月6日広島に原子爆弾が投下されたことを知り、市長もこれ以上の延引は出来ないと決心して、天守閣および公会堂の取りこわしが完了したのは8月14日であり終戦の前日の午後であったということである。」(岸本佳一「加茂川」津山朝日新聞社1997)


(続く)

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