◻️37『岡山の今昔』鎌倉時代の三国(政治)

2022-01-16 18:50:37 | Weblog
37『岡山の今昔』鎌倉時代の三国(政治)

 備前、備中及び美作の領国支配を巡っては、鎌倉幕府の下、まずは地頭職が置かれていく。関東の御家人であった渋谷氏(しぶやし)は、美作国の河会郷(現在の英田郡英田町)の地頭に移ってきた。その渋谷氏は、3大河川の一つである吉井川の支流の河会川の中流域を幕府から巻かされる。また秋庭氏(あきばし)は、高梁川に流れ込む有漢川の上流域(現在の上房郡有漢町)の地頭となって、備中国へとやって来た。このように、関東から赴任してきた者たちを「西遷御家人」(せいせんごけにん)と呼ぶ。
 その中には足利氏の名も見える。承久の変後の1222年(承久四年・貞応元年)、足利義氏は、北条義時の後を承けて、陸奥守に任官していた。名は三郎義氏といい、母は北条時政の次女時子とあるから、北条氏とは元々親戚の間柄であったのだろうか。その彼が、この変に功があったとして1224年(貞応3年・元仁元年)「美作国に於て、新野保(現在の津山市新野東)以下数箇所を受領せしが、やがて左馬頭に進み、正四位下に叙せられたり」(『梅松論』、「左馬頭義氏」『足利市史・上巻』(足利市役所編纂、1928年(昭和3年)」からの引用)とある。この辺り、足利氏がじわりじわりと中央政界に顔を覗かしつつあることを、じわり示唆している一コマである。
 こうした地頭職の上に君臨し、彼らを指揮・監督する立場の御家人に、守護職があった。時は1184年(寿永3年・元暦元年)、土肥実平が、備前の守護職に就任する。ところが、1221年(承久3年)の承久の変前後に、備前の守護は佐々木信実(盛綱の子)に替わる。さらに、1264年(文永元年)頃、長井泰重(政所別当の大江広元の孫)になる。それからも、鎌倉期末期には加地氏(佐々木盛綱の子孫)に職責が移っていった。備中の守護は、1279年(弘安2年)前後に北条の特宗(嫡統の本家)の所領になっていた。
 美作の守護は、1184年(寿永3年・元暦元年)から梶原景時(かじわらかげとき)であった。景時と美作との関わりは「源平の合戦」以来であり、この年、「平家方の木下一族の守る新宮城が梶原景時の軍勢に攻められ、激戦の末に落城した」(宮澤靖彦『津山市広野の歴史散歩ー文化財と解説』、1994年版)ことが伝わっている。郷土史家の小谷善守は、久世一帯に景時伝承が色濃く残っている理由とその様子を次のように伝えている。

 「久世氏は、源頼朝が奥州藤原氏を討つため、諸国から軍勢を集めた時、美作守護の梶原景時の動員に応じて、以後、頼朝の御家人(ごけにん)として、鎌倉幕府に仕えたといわれる。久世貞平(くせさだひら)といい、公家領の現地管理者であっだろうという。
 武家政権を確立した鎌倉幕府が、勢力を広げていったチャンスをとらえ、直接、鎌倉に結び付いた地方有力者の一人であろうが、「津山市史」は「治承の動乱の当初から、直接、頼朝に見参して御家人となり、守護地頭に任命された関東地方の武士と比較して、西国地方ては、非御家人である庄官が、このような形で御家人になった例が多い。なお、久世氏の本拠は不明であるが、その苗字から現在の久世町付近であったと考えでよいであろう」としている。
 梶原景時が、石橋山のか合戦で、頼朝の危険を助け、その重臣になった話は、よく知られているが、美作の守護になったのは元暦元年(1184)。土肥実平とともに、美作、播磨、備前、備中、備後の守護を分担し、景時は、美作と播磨(兵庫県)、次いで美作の目代(国司の代理)にもなつているが、これは美作地方が武家政権のさん下に入ったことを意味しているという。
 美作の地が東国勢力の中に組み込まれた12世紀は、それまでに経験していなかった新しい文物の流入であり、エポックになったに違いない。」(小谷善守「出雲街道」第2巻、「勝山ー久世」、「出雲街道」刊行会、2000)

 それが1200年(正治2年)になると、景時が持っていたこの権益は、和田義盛にとってかわられた。その後1213年(健保元年)、義盛は幕府に対し反乱ということにされて攻め込まれた。その敗戦により、美作の守護職が誰の手に渡ったかはわかっていないようだ。さらに1264年(文永元年)から1292年(正応5年)の文永・正応の頃になると、これも北条の特宗(とくそう、嫡統の本家)の所領になっている。ここにあるように、守護職に任じられていたのは、関東の有力部族なり、かれらを最終的に束ねる北条一族の長となっているのは、驚きというほかはない。
 1292年(正応5年)、美作の久世保(現在の久米郡)で鎌倉幕府の御家人に任じられていた久世氏は、「大炊寮領」(おおいりょうりょう)という名の荘園の所職の一つである「下司(げし)、公文職(くもんしき)」職を得ているのを、その地の荘園領主であるらしい雑掌覚証がその職を取り上げようとしたのが争論に上った。これに対する裁定であるところの「御教書」(みきょうじょ)が出される3日前には、幕府による、次のような大元の御教書が出されている。
 「西国御家人は、右大将家の御時より、守護人等、交名を注し、大番以下課役を勤むると雖も、関東御下文を給ひ、所職を領掌る輩、いくばくならず。重代の所帯たるによって、便宜に従ひ、或いは本所領家の下文を給ひ、或いは神社惣官の充文を以て、相伝せしむるか。本所進止の職たりと雖も、殊に罪科無く、者(てえれ)ば、改易さるるべからずの条、天福・寛元に定め置かるるところ也。然れば所職を安堵し、本所年貢以下の課役、関東御家人役を勤仕すべくの由、相触るべくの状、仰せによって執達件の如し。
正応5年8月7日
陸奥守(宣時)御判、相模守(貞時)御判、越後守(兼時)殿、丹波守(盛房)殿」(貞永式目追加633)」
 この親文書を拠り所にして出された本件争論に対する「御教書」には、京都にいる大炊領の荘園主の主張を退け、久世氏に元のように所職を安堵している。関東御家人としての職務についても、引き続いて勤めるような命令がなされる。この採決によると、久世氏が就いていたのは、荘園領主が任免権を持つ荘官の地位に過ぎなく、その職は鎌倉幕府から与えられたものではない。この久世保(久世町)では幕府任命の地頭による領主制がまだ芽生えていなかった。その点で、同じ美作の梶並荘でのような、新しい地頭(これを「新補地頭」という)が補任されることを含め、従来の荘園領主による土地支配にとって代わろうとしたものでは無かった。御家人の立場から見ると、この力関係の下であればこそ、頼るべきは鎌倉幕府であったし、訴えを受けた幕府は彼を擁護するに至る。
 これに似るものとして、備後の地、神崎庄(現在は広島県か)においては、1318年(文保2年)、荘園土地を巡って、国衙(こくが)と地頭との間に、次のような約定があった。次の書状が残されている。
 「和与す。備後国神崎庄下地(したじ)以下所務条々の事。右、当庄の領家高野山金剛三昧院内遍照院雑掌行盛と、地頭阿野侍従季継御代官助景との相論(そうろん)、当庄下地以下所務条々の事、訴陳(そちん)に番(つが)ふと雖も、当寺知行の間、別儀を以て和与(わよ)せしむ。田畠、山河以下の下地は中分(ちゅうぶん)せしめ、各一円の所務致すべし。」(「金剛三昧院文書」)
 ここに「下地は中分せしめ」とあるのは、現地の荘園の土地の相当部分を地頭に与え、国衙(こくが)と地頭とが支配権を認め合うことで土地管理の争いを収めようとした。この案件では「和与」、つまり裁判による「強制中分」ではなく、双方の話し合いによる和解(「和与中分」)が成った、とある。よく言えば、双方による痛み分けともとれる内容だ。これにより、地頭は荘園管理などの実質的な支配権は次第に地頭の手に移っていく。その先には、地頭に荘園管理の一切を任せ、一定の年貢納入だけを請け負わせる「地頭請所(じとううけしょ)」があったのだ。
 1317年(文保元年)、後醍醐天皇が即位する。そのことは、大覚寺統(だいかくじとう)の後宇多上皇と持明院統の後二条天皇による「文保の御和談」で決まっていた。この協定によるかぎり、後醍醐天皇の後は大覚寺党の御二条天皇の皇子が、ついで持明院統の後伏見天皇の皇子が皇太子となり、以後、これらの皇子の系統が交互に即位することにならざるをえない。こうなると、後醍醐天皇の子孫は天皇位に就けなくなる。
 それでも、政治的野心の持ち主でもあった同天皇は、密かに幕府に取って代わろうという計画を練り始める。そして1331年(元弘元年)、後醍醐天皇による倒幕の密議が関東に漏れる。これを察知した鎌倉幕府は、後醍醐天皇に幽閉処分を下す。北条氏は後醍醐の代わりとして、直ちに持明院統(じみょういんとう)から後伏見上皇の第一皇子である量仁親王(かずひとしんのう)を擁立して光厳天皇とする。
 ついでにいうと、「太平記」などでは、後醍醐天皇の隠岐への処分が決まり、一行が出雲街道沿いの杉坂峠を通ったおり、備前の武士である児島高徳らが彼を奪い返そうとしたとの逸話が伝わるものの、事実かどうかは分かっていない。参考までに、それによると、彼らは天皇一行の道筋をたがえて失敗し、児島主従のみは宿泊先の院庄館(いんのしょうやかた)に彼をたずね、忠誠心を吐露したといい、その時の主従のきづなの確認にちなんで、あの切々とした「桜ほろ散る院庄」云々との「忠義桜」歌などが伝わる。その道中の高台に一本桜(在、現在の真庭市別所)があり、「醍醐桜(だいござくら)」と呼ばれる。隠岐の島に配流の途中、後醍醐天皇が桜の立派な姿を讃えたため、この名が付けられたとも言われているが、それだと言うには少し無理があるのかもしれない。ともあれ、同じ現在の真庭市に地上高く立ち上がっている「岩井畝(いわいうね)の大桜」と並んで、推定樹齢が日本有数の桜であることに間違いあるまい。

(続く)

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