17の2『岡山の今昔』「三好清行意見封事十二箇条」(914、備中下道郡)
当時の都・京都では、朝廷や取り巻きの貴族、関係する寺社なども、地方からの年貢や役務に頼ることで、生活が成り立っていた。そのことの変化をうかがわせる文書が、現地の下道郡の国司から届け出されていた、醍醐(だいご)天皇の求めい応じて書かれたその文書には、こうある。
「臣(三好清行・引用者)、去る寛平五年に備中介に任ず。かの国の下道郡に、邇磨郷あり。ここに彼の国の風土記を見るに、皇極天皇六年(660年・引用者)に、大唐の将軍蘇定方、新羅の軍を率ゐ百済を伐つ。百済使を遣わし、救はんことを乞ふ。天皇筑紫に行幸したまひ、将に救の兵を出さんとす。 (中略)
路に下道郡に宿したまふ。一郷を見るに戸邑甚だ盛なり。天皇詔を下し、試みに此の郷の軍士を徴したまふ。即ち勝兵二万人を得たり。天皇大に悦びて、この邑を名づけて二万郷と曰ふ。後に改めて邇磨郷と曰ふ。(中略)
天平神護年中に、右大臣吉備朝臣(吉備真備(きびのまきび))、大臣といふを以つて本郡の大領を兼ねたり。試みに此の郷の戸口を計ふるに、纔に課丁千九百余人ありき。貞観の初め、故民部卿藤原保則朝臣、彼の国の介たりし時に、(中略)大帳を計ふるの次でに、その課丁を閲するに、七十余人ありしのみ。
清行任に到り又この郷の戸口を閲せしに、老丁二人・正丁四人・中男三人ありしのみ。去にし延喜十一年、彼の国の介藤原公利、任満ちて都に帰りたりき。清行問ふ、「邇磨郷の戸口当今幾何ぞ」と。公利答へて云はく、「一人もあることなし」と。
謹みて年紀を計ふるに、皇極天皇六年庚申より、延喜十一年辛未に至るまで、纔に二百五十二年、衰弊の速かなること、また既にかくのごとし。一郷を以てこれを推すに、天下の虚耗、掌を指して知るべし。」(「三好清行意見封事十二箇条」)
これの中程に、「路に下道郡に宿したまふ。一郷を見るに戸邑甚だ盛なり。天皇詔を下し、試みに此の郷の軍士を徴したまふ。即ち勝兵二万人を得たり。天皇大に悦びて、この邑を名づけて二万郷と曰ふ。後に改めて邇磨郷と曰ふ」とあるように、飛鳥時代には2万人もの兵を集めることができたという。
当時の都・京都では、朝廷や取り巻きの貴族、関係する寺社なども、地方からの年貢や役務に頼ることで、生活が成り立っていた。そのことの変化をうかがわせる文書が、現地の下道郡の国司から届け出されていた、醍醐(だいご)天皇の求めい応じて書かれたその文書には、こうある。
「臣(三好清行・引用者)、去る寛平五年に備中介に任ず。かの国の下道郡に、邇磨郷あり。ここに彼の国の風土記を見るに、皇極天皇六年(660年・引用者)に、大唐の将軍蘇定方、新羅の軍を率ゐ百済を伐つ。百済使を遣わし、救はんことを乞ふ。天皇筑紫に行幸したまひ、将に救の兵を出さんとす。 (中略)
路に下道郡に宿したまふ。一郷を見るに戸邑甚だ盛なり。天皇詔を下し、試みに此の郷の軍士を徴したまふ。即ち勝兵二万人を得たり。天皇大に悦びて、この邑を名づけて二万郷と曰ふ。後に改めて邇磨郷と曰ふ。(中略)
天平神護年中に、右大臣吉備朝臣(吉備真備(きびのまきび))、大臣といふを以つて本郡の大領を兼ねたり。試みに此の郷の戸口を計ふるに、纔に課丁千九百余人ありき。貞観の初め、故民部卿藤原保則朝臣、彼の国の介たりし時に、(中略)大帳を計ふるの次でに、その課丁を閲するに、七十余人ありしのみ。
清行任に到り又この郷の戸口を閲せしに、老丁二人・正丁四人・中男三人ありしのみ。去にし延喜十一年、彼の国の介藤原公利、任満ちて都に帰りたりき。清行問ふ、「邇磨郷の戸口当今幾何ぞ」と。公利答へて云はく、「一人もあることなし」と。
謹みて年紀を計ふるに、皇極天皇六年庚申より、延喜十一年辛未に至るまで、纔に二百五十二年、衰弊の速かなること、また既にかくのごとし。一郷を以てこれを推すに、天下の虚耗、掌を指して知るべし。」(「三好清行意見封事十二箇条」)
これの中程に、「路に下道郡に宿したまふ。一郷を見るに戸邑甚だ盛なり。天皇詔を下し、試みに此の郷の軍士を徴したまふ。即ち勝兵二万人を得たり。天皇大に悦びて、この邑を名づけて二万郷と曰ふ。後に改めて邇磨郷と曰ふ」とあるように、飛鳥時代には2万人もの兵を集めることができたという。
それが、奈良時代後期の天平年間になると、この村の課税可能な人口が「課丁千九百余人」に成り代わり、さらに今では一人もいないことになっている、というのだ。
続けて、朝廷に対して、こう建言しているという。
続けて、朝廷に対して、こう建言しているという。
「意見十二箇条(中略)
一、まさに水旱を消し、豊穰を求むべき事。(中略)
一、奢侈を禁ずるを請うの事。(中略)
一、諸国に勅し、見口の数に随いて口分田を授くるを請うの事。(中略)牧宰空しく無用の田籍を懐き、豪富いよいよあわせ兼ねたる地利を収む。ただ公損の深きのみにあらず、また吏治(りち)の妨げとなる。(中略)」
一、大学生徒の食□を加給するを請うの事。(中略)
一、五節の妓員を減ずるを請うの事、(中略)
一、旧に依りて判事の員を増置するを請うの事。(中略)
一、平均に百官の季禄を充て給うを請うの事。(中略)
一、諸国の少吏并びに百姓の告言訴訟に依りて朝使を差遣する停止するを請うの事。(中略)
一、諸国勘籍人の定数を置くを請うの事。(中略)
一、贖労人をもって諸国の検非違使及び弩師に補任するを停むるを請うの事。(中略)
一、諸国の僧徒の濫悪、及び宿衛の舎人の凶暴を禁ずるを請うの事。(中略)
一、重ねて播磨国魚住泊を修復するを請うの事。(中略)
延喜十四年四月廿八日 従四位上行式部大輔臣三善朝臣清行 上る」
一、まさに水旱を消し、豊穰を求むべき事。(中略)
一、奢侈を禁ずるを請うの事。(中略)
一、諸国に勅し、見口の数に随いて口分田を授くるを請うの事。(中略)牧宰空しく無用の田籍を懐き、豪富いよいよあわせ兼ねたる地利を収む。ただ公損の深きのみにあらず、また吏治(りち)の妨げとなる。(中略)」
一、大学生徒の食□を加給するを請うの事。(中略)
一、五節の妓員を減ずるを請うの事、(中略)
一、旧に依りて判事の員を増置するを請うの事。(中略)
一、平均に百官の季禄を充て給うを請うの事。(中略)
一、諸国の少吏并びに百姓の告言訴訟に依りて朝使を差遣する停止するを請うの事。(中略)
一、諸国勘籍人の定数を置くを請うの事。(中略)
一、贖労人をもって諸国の検非違使及び弩師に補任するを停むるを請うの事。(中略)
一、諸国の僧徒の濫悪、及び宿衛の舎人の凶暴を禁ずるを請うの事。(中略)
一、重ねて播磨国魚住泊を修復するを請うの事。(中略)
延喜十四年四月廿八日 従四位上行式部大輔臣三善朝臣清行 上る」
これらのうち、3番目の「一、諸国に勅し、見口の数に随いて口分田を授くるを請うの事。(中略)牧宰空しく無用の田籍を懐き、豪富いよいよあわせ兼ねたる地利を収む。ただ公損の深きのみにあらず、また吏治(りち)の妨げとなる」との下りに、主張のエッセンスが宿されているようであり、これだと、「今では国司は役立たずの土地・人民台帳持っているだけで、富裕な者はますます土地を広げ、利益を上げることになっている。これは、国家の損失というに止まらず、国司の職務遂行を妨げることにもなっている」と結論付けている。
(続く)
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