新年95『岡山の今昔』備前、備中及び美作の戦乱のあらまし(~戦国時代、領国支配をめぐって)
ここ高梁辺りにおいて最初に居城していたのは、備中の有漢郷(現在の上房郡有漢町)の地頭であった秋庭重信(あきばしげのぶ)であった。この居城、秋庭氏(あきばし)が5代続いた後の元弘年間(1331~33)には、高橋氏にとって替わり、高橋九郎左衛門宗康が城主となる。
折しも、南北朝の動乱期の只中で、宗康は松山城の城域を大松山から小松山まで拡大し、外敵の侵入に備えた。この九郎左衛門にちなむ逸話としては、自分の名前と地名が同じなのは気に入らなかったのか、高橋改め松山と号す。
ところが、明治になってこの松山が伊予国の松山と紛らわしいという声が上がる。一悶着(ひともんちゃく)があったのかどうかはつまびらかでないものの、結局は、前々のものとは区別する意味も込めてか、橋梁もしくは中国王朝にあった「梁」(りょう、中国語名では「リアン」)にあやかってか、梁を採用することにし、高梁(たかはし)で落ち着いたらしい。
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○折しも、備中では、高(南)宗継が守護となり、ついで秋庭氏、細川氏、宮氏、渋川氏など、めまぐるしく守護が交代していくた。
1375年(永和元年)、渋川満頼が守護職を継承する。その在職中の1381年(永徳元年)には、川上郡を石堂頼房が分郡支配し、明徳元年から川上郡と英賀・下道の各郡賀細川頼元の統治下に入った模様だ。
細川頼之は、1392年(明徳3年)、明徳の乱鎮圧後ほどなく没し、三郡は備中守護の統治下に置かれる。同年哲多郡は頼之の子頼元の支配となる。
1393年(明徳4年)には、渋川満頼は守護を罷免され、守護には細川頼元の弟満之が補任される、以後、頼元の子孫が世襲していくものの、次第に勢力を失っていく。
そうこうするうちにも、守護やその被官としての守護代、国人衆などは、荘園・公領を押領したりで、自己の所領化していく。備中国の細川氏支配の守護代としては、庄氏・石川氏が代表的だろう。国人衆なども含めることでは、成羽荘の三村氏、新見荘の新見氏などが有名だ。
1375年(永和元年)、渋川満頼が守護職を継承する。その在職中の1381年(永徳元年)には、川上郡を石堂頼房が分郡支配し、明徳元年から川上郡と英賀・下道の各郡賀細川頼元の統治下に入った模様だ。
細川頼之は、1392年(明徳3年)、明徳の乱鎮圧後ほどなく没し、三郡は備中守護の統治下に置かれる。同年哲多郡は頼之の子頼元の支配となる。
1393年(明徳4年)には、渋川満頼は守護を罷免され、守護には細川頼元の弟満之が補任される、以後、頼元の子孫が世襲していくものの、次第に勢力を失っていく。
そうこうするうちにも、守護やその被官としての守護代、国人衆などは、荘園・公領を押領したりで、自己の所領化していく。備中国の細川氏支配の守護代としては、庄氏・石川氏が代表的だろう。国人衆なども含めることでは、成羽荘の三村氏、新見荘の新見氏などが有名だ。
○郷土史家の小谷善守は、美作辺りの戦国時代の幕開けまでの経緯について、こう概略を記している。
「岩屋城跡は、標高483メートル、久米町内の西部になる。ふもとの盆地は、町内の東部地区に比べ、広くはない。津山まで約15キロ、元禄4年(1691)の「作陽誌」は「岩屋城は、中北上村にある。ふもとから頂上まで8町余(約872メートル)。周囲は険しいが、上はやや広く平坦である。嘉吉元年(1441)に山名修理大夫教清が美作の守護となり、初めてここに築いた」と記しているが、この「作陽誌」をはじめ「久米町史」、寺坂五夫著の「美作古城史」、山岡矩雄久米町史編纂委員長の話を参考に岩屋城に少し触れていく。
嘉吉元年(1441)、美作国守護職・赤松満祐は、将軍・足利義教を討って本拠の播州(兵庫県)へ引き揚げたが、山陰の山名持豊は、この赤松満佑を討ち、その功で一門の山名教清が美作守護職となった。教清は、この年に美作の本城として岩屋城を築いた。このころ、将軍・足利義政の後について、細川勝元が義政の弟を推し、山名持豊は義政の子・義尚を推して争いとなった。応仁の乱だが、岩屋城主だった山名教清の子・政清は京都へ上り、山名持豊の軍に加わった。播磨の赤松政則は、政清の留守に乗じて岩屋城を攻略し、文明5年(1477)、美作国守護職となって、大河原治久に岩屋城を守らせた。
嘉吉元年(1441)、美作国守護職・赤松満祐は、将軍・足利義教を討って本拠の播州(兵庫県)へ引き揚げたが、山陰の山名持豊は、この赤松満佑を討ち、その功で一門の山名教清が美作守護職となった。教清は、この年に美作の本城として岩屋城を築いた。このころ、将軍・足利義政の後について、細川勝元が義政の弟を推し、山名持豊は義政の子・義尚を推して争いとなった。応仁の乱だが、岩屋城主だった山名教清の子・政清は京都へ上り、山名持豊の軍に加わった。播磨の赤松政則は、政清の留守に乗じて岩屋城を攻略し、文明5年(1477)、美作国守護職となって、大河原治久に岩屋城を守らせた。
永正15年(1518)になり、赤松政村の将であった浦上村宗が主家の赤松に背き、永正17年(1520)になり、岩屋城を落として部将の中村則久に守らせた。」(小谷善守「出雲街道」第3巻、「出雲街道」刊行会、2000)
○1461年(寛正2年)の新見荘では、守護被官を務める安富氏の代官支配を退け、東寺の直轄支配を要求する土一揆が発生する。
○1461年(延徳3年)には、守護代の庄元資が細川氏に反旗を翻す。ひとまず、これは細川氏の勝利に終わるものの、以後、守護の勢力は衰え、有力国人勢力が台頭していく。
○1470年(文明2年)頃、美作は赤松氏の支配下となる。
○1467年(応仁元年)、京都で応仁の乱が勃発する。
○1470年(応仁4年)には、応仁の乱が大方収まる。すると、山名氏が美作の奪回に動く。
○1480年(文明12年)、山名氏が美作東部を奪回する。その山名氏は、赤松氏の内紛とに乗じる形で、翌年には美作全域を勢力下におく。ただし、山名氏は守護に任じられることはなかった。
○1486年(文明18年)、赤松氏は守護代浦上伯耆守口により美作の支配拠点である院庄を回復する。翌1487年(長享元年)には、美作全域を支配下におく。
○1488年(長享2年)には、山名軍が美作から退き、赤松軍が入って領国に組み込み、支配を始める。
○1477年に応仁の乱が終わってからは、室町幕府の権威はあらかた失墜していた(その時の九代将軍の足利義尚(あしかがよしひさ)は足利義政の子。放蕩の末にか、1489年(延徳元年)に近江守護大名六角氏討伐の陣中で病死。)。
その頃の備前、備中そして美作をふくめての次の記述たるや、そのことを生々しく、こう伝える。
その頃の備前、備中そして美作をふくめての次の記述たるや、そのことを生々しく、こう伝える。
「文明九年十二月十日、・・・就中天下の事、更に以て目出度き子細これ無し。近国においては近江、三乃、尾帳、遠江、三川、飛騨、能登、加賀、越前、大和、河内、此等は悉く皆御下知に応ぜず、年貢等一向進上せざる国共なり。其の外は紀州、摂州、越中、和泉、此等は国中乱るるの間、年貢等の事、是非に及ばざる者なり。
さて公方御下知の国々は幡摩、備前、美作、備中、備後、伊勢、伊賀、淡路、四国等なり。一切御下知に応ぜず。
守護の体(てい)、別体(べったい)においては、御下知畏(かしこ)入るの由申入れ、遵行等これを成すといえども、守護代以下在国の物、中々承引に能(あた)はざる事共なり。よって日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり」(興福寺の大乗院の尋尊による「大乗院寺社雑事記」)
これにあるのは、「就中天下の事、更に以て目出度き子細これ無し」(現代訳は、うまく政治が行われているといったことはまったくない)に始まり、「よって日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり」(現代訳は、日本国産中においてはことごとく幕府の命令を受け入れようとしない)で締めくくるという具合にて、致し方ないといったところか。
○1518年(永正15年)頃から、赤松氏被官であった浦上氏が、美作に入ってくる。
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○浦上則宗は、政則と一時対立したものの、和解して山名勢を撃退し、政則の没後に起った領国内の紛乱も、則宗が政則の子義村を奉じて鎮圧する。 やがて、浦上氏は赤松氏から実権を奪い、勢力を拡大していく、その基盤をつくって浦上則宗は、1502年(文亀2年)備前国三石城(現在の備前市三石)で亡くなる。
○1519年(永正6年)、赤松政則の後を継いだ義村は、浦上氏の居城三石城を攻めるも、大敗を喫し、 1521年(大永元年)には、赤松義村は浦上村宗によって自害に追い込まれる。
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○1520年(永正17年)には、赤松氏の美作支配の拠点である岩屋城を攻撃し、城は数日で落城、浦上氏被官中村則久が入城する。赤松氏は、岩屋城奪回の兵を挙げ城を囲む。城将中村氏は奮戦する。浦上氏被官の宇喜多能家の援軍もあり、逆襲に転じ、赤松軍は敗走する。以後、浦上氏が美作国を支配する。
○1521年(大永元年)には、浦上氏の浦上村宗が、赤松氏の赤松義村を殺した、美作を支配する。
○1531年(享禄4年)には、浦上氏のあとを継いでいた浦上村宗は 細川氏に加勢して、摂津へ出兵し天王寺の合戦で討死する。 村宗の後は子の政宗が継いで、本拠を室山城に移す。しかし、政宗は弟の宗景と不和になり、宗景は政宗から独立する。
○1532年(天文元年)には、出雲の尼子氏が美作に侵攻し、数年の間に美作東部・中部を制圧する。
○1532年(享禄5年)に、浦上宗景は天神山に城を築く。その宗景は、播磨西部と備前で主家を圧倒する力を得て、守護代から戦国大名化していて、播磨西部と備前東部を支配するにいたる。
○1533年(天文2年)、備中の猿掛城主だった庄為資が尼子氏と組んで、備中松山の覇権を握っていた上野信孝を破り備中松山城を取り込んだ。同じ頃川上郡・鶴首城や国吉城を拠点とする三村氏もまた、備中への進出の機をうかがっていた。三村氏はまた、庄氏のバックである鳥取の尼子氏(あまこし)と敵対関係にあった。そこで西の毛利氏と連絡し、この力を借りて松山城へ侵攻しこれを奪取した。
備中に拠点を得た三村氏は、その余勢をかりて1567年(永録10年)、備前藩宇喜多直家の沼城にまで足を運んでこれを攻め立てるのを繰り返していた。さらに三村家親が備前、宇喜多家攻めで美作方面に出陣中、刺客に襲われ、落命するという珍事が起こる。
この事件について、「備前軍記」には、こうある。
この事件について、「備前軍記」には、こうある。
「としも明け永禄九年(1566)の春になりて、重ねて三村家親作州へ働き出、備前へも打入べきよし聞えければ、宇喜多安からず思ひ、何とぞ謀を以て三村を打取べしと工夫ありて、津高郡加茂に居住せし浪人侍に遠藤又次郎・同喜三郎という兄弟の者あり。(中略)
三村家親此度は穂村の興禅寺を本陣として其辺に皆々軍兵ども陣取ける。常に其寺の便宜案內はよく知りたれば、敵陣の間を忍び入て兄弟申合せ鉄砲にてねらひ搏殺さんとぞ謀りける。二月五日の夜の事なれば月も入り、夜廻りの者に紛れて客殿の庭へ忍び入りうかゞへば、本堂の方に家親が声聞ゆれば、椽へ上り唾にて障子の紙を湿し押破り見れば、家人を集めて家親は仏壇の前に寄添て軍評定をせしと聞ゆ。
又次郎かくし持たりし短き鉄砲に二ツ玉込たるにて是をうたんと、かの障子の破よりねらひけるに火縄立消して玉出でず。則鉄砲を引きその筒を椽の下へかくし置き、又夜廻りの番所へ行て篝火によって寒き夜のうさなど物語り、しづかにして羽織の裾を火の中へ入る。番人物焼け臭しといふ。喜三郎麁末にて某が羽織を焼たりとて、もみ消すふりにて其所をさりげなく立さり、小蔭にて其火を火縄にうつし付て又次郎に渡す。
又次郎是をとりて又元の椽に上りてのぞき見れば、今度は家親はじめの仏壇にもたれかゝり眠り居たるを幸とて、ねらひ澄し搏たれば脳を打貫きぬと見ゆ。兄弟ども是をよく見極めて堂の後の藪に隠れてゐたるに、寺中大きに騒ぎけるが程なく静りぬ。」(「備前軍記」より)
又次郎かくし持たりし短き鉄砲に二ツ玉込たるにて是をうたんと、かの障子の破よりねらひけるに火縄立消して玉出でず。則鉄砲を引きその筒を椽の下へかくし置き、又夜廻りの番所へ行て篝火によって寒き夜のうさなど物語り、しづかにして羽織の裾を火の中へ入る。番人物焼け臭しといふ。喜三郎麁末にて某が羽織を焼たりとて、もみ消すふりにて其所をさりげなく立さり、小蔭にて其火を火縄にうつし付て又次郎に渡す。
又次郎是をとりて又元の椽に上りてのぞき見れば、今度は家親はじめの仏壇にもたれかゝり眠り居たるを幸とて、ねらひ澄し搏たれば脳を打貫きぬと見ゆ。兄弟ども是をよく見極めて堂の後の藪に隠れてゐたるに、寺中大きに騒ぎけるが程なく静りぬ。」(「備前軍記」より)
○1536年(天文5年)には、尼子晴久の軍が備中に侵入し、1554年(天文23年)、晴久は名目上ではあったが備中守護に任じられる。
○1543年(天文12年)、守護の赤松晴政は、備前に侵攻し、浦上氏を攻めたが、宗景はこれを撃退する。
○1545年(天文13年)、尼子晴久は岩屋城・高田城を攻め、岩屋城主中村則治は尼子方になる。1549年(天分文17年)には、 高田城も尼子方に落ち、尼子氏は美作の大半を支配する。そしての1553年(天文21年)には、その尼子氏が美作守護に任じられる。
○1540年代に美作を制圧した尼子氏は、今度は、その勢いをもって備前侵攻をはかっていく。
○1545年(天文13年)での浦上氏の被官・宇喜多直家は、かかる尼子氏への対抗関係もあってか、吉井川河口に乙子城を築き居城とする。直家の祖父興家の代に没落していたのを、直家の代に再興したものである。
その宇喜多氏は、乙子城から新庄城、亀山城へと拠点を移し、備前南部に勢力をもつようになる。以後、備前は東備の浦上氏、 西備の松田氏、南備の宇喜多氏の勢力が鼎立(ていりつ)する図式となる。
○1552年(天文21年)には、出雲(いずも)に拠点をおく尼子晴久(あまこはるひさ)が、美作の守護となる。
○1552年(天文21年)には、中山神社(現在の津山市一の宮にある)を本拠として土一揆があり、出雲を本拠とする尼子晴久が神社に侵入して焼き払う。それから程なくの1554年(天文23年)には、尼子に対して、大隅宮で土一揆が起きる。1558年(永禄元年)には、尼子晴久が、中山神社の本殿を再建する。
○1561年(永禄4年)には、宇喜多軍に浦上氏の浦上宗景か攻められ、浦上氏は滅亡する。
○1564年(永禄7年)には、浦上政宗が赤松政秀の襲撃に遭い討ち死にし、政宗の子の浦上誠宗が継ぐも、1567年(永禄10年には宗景が誠宗を暗殺し、浦上宗家の乗っ取る形となる。
しかし、その浦上宗景も、1577年(天正5年)に家臣の宇喜多直家に居城の天神山城を攻められ、宗景は播磨に遁走をし、備前は宇喜多直家の手中に収める。ここに、天神山城は、浦上宗景一代で廃城となった訳だ。
しかし、その浦上宗景も、1577年(天正5年)に家臣の宇喜多直家に居城の天神山城を攻められ、宗景は播磨に遁走をし、備前は宇喜多直家の手中に収める。ここに、天神山城は、浦上宗景一代で廃城となった訳だ。
○1566年(永禄9年)には、毛利氏が尼子氏を攻め滅ぼす。
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○家親亡き後を継いだ子の三村元親(みむらもとちか)は、よほど悔しかったのだろうか、1568年(永録11年)に弔(とむら)い合戦のため再び備前に攻め込む。一説には、総勢2万の軍勢を三手に分けて、5千を擁する宇喜多勢を撃破しようとしたのであったが、かえって地の利のある宇喜多勢に撃退されてしまう。この合戦を、「明禅寺崩れ」(みょうぜんじくずれ)と呼ぶ。
この大敗によって敗走した三村氏であったが、その後の毛利氏の援助により、松山城を拠点とし何とか勢力をつないでいく。
この同じ年、三村氏に率いられた備中の軍勢が毛利氏の九州進攻に参加していた隙をつき、宇喜多直家は備中に侵攻した。備中松山城を守る庄高資や斉田城主・植木秀長などは、この時に宇喜多側に寝返った。猿掛城も奪還されることとなり、ついに備中松山城を攻撃し庄氏を追い落とした。それからは城主であった三村元親が高梁に戻って奮戦、備中松山城をようやく奪還し、同城に大幅に手を加えて要塞化するのだった。
○1568年、松田元輝の家臣にして津高郡徳倉城主の宇垣市郎兵衛(うがきいちろうびょうえ)の弟、宇垣与右衛門(うがきようえもん)が、宇喜多直家側に謀殺された。金川城周辺(現在の岡山市北区)で開かれた鹿狩りの際に、松田家臣宇垣与右衛門が「鹿と間違えた」という理由で宇喜多側の人間によって弓で射ち殺されたのだ。
その時、さすがに家中から「宇喜多の手の者の仕業ではないか」という声が挙がるが、主君の元輝は、宇喜多との友好関係が乱れる事を恐れこれを黙認してしまう。この元輝の処置に激怒した宇垣市郎兵衛は、元輝に絶縁状を突きつけて出奔したという。この頃には、もはや元輝と家臣団との溝は決定的なものになっていく。
その時、さすがに家中から「宇喜多の手の者の仕業ではないか」という声が挙がるが、主君の元輝は、宇喜多との友好関係が乱れる事を恐れこれを黙認してしまう。この元輝の処置に激怒した宇垣市郎兵衛は、元輝に絶縁状を突きつけて出奔したという。この頃には、もはや元輝と家臣団との溝は決定的なものになっていく。
○1569年(永禄12年)には、毛利元就(もうりもとなり)が、総社宮(現在の津山市総社)の本殿を建てる。
○1570年(元亀元年)には、宇喜多方の花房職秀(はなるさもとひで)が、荒神山に城を築く。花房は、天台宗の極楽寺(現在の津山市小桁)をうち壊す。
○1574年(天正2年)、毛利氏の山陽道守将で元就の三男の小早川隆景が、宇喜多直家と同盟を結ぶ。。このため、宇喜多氏に遺恨を持つ元親は毛利氏より離反するのを余儀なくされる。
あえて孤立を選んだ当主の三村元親は、叔父の三村親成とその子・親宣などの反対を押し切り、中国地方に進出の機会をうかがう織田信長と連絡するに至る。戦いの火蓋が切られると、備中松山の城ばかりでなく、臥牛山全体が要塞化される。
○1576年(天正4年)には、三浦氏は毛利輝元によって滅ぼされ、高田城は毛利氏、篠向城(現在の真庭市三崎)は宇喜多氏の所領となる。
○この城が毛利軍に包囲されて後は、内応する者が次々と現れる。明けて1575年(天正3年)には、最後まで残った家臣の説得により、元親はついに城を捨てることに決める。落ち延びていく途中で元親死んだことにより、備中松山城と三村氏の領地はついに毛利氏の支配下に編入された。この一連の戦いを、備中全体を揺るがしたという意味を込め「備中兵乱」(びっちゅうひょうらん)と呼ぶ。
○1578年(天正6年)には、宇喜多方の日蓮宗の宗徒たちが、浄土宗の誕生寺(現在の久米南町)を焼き討ちにする。
○1579年(天正7年)には、宇喜多方の美作の拠点たる、吉井川を隔てた南側の荒神山(こうじんやま)を拠点とする花房助兵衛職秀(はなふさすけのひょうえもとひで)の軍が、毛利方の神楽尾城を攻める。これについては、毛利氏配下の神楽尾城側が、この年織田方になった宇喜多氏に対し攻撃を仕掛ける計画であった。ところが、これが花房側の密偵に事前に察知されていたという。
そこに夜襲を決行した神楽尾城側(かくらおじょうがわ、毛利方)は、待ち構えていた敵に敗北し、逆に今度は、荒神山城の伏兵からの攻撃により、神楽尾城が火を放たれてあえなく落城してしまう。
○1579年(天正7年)、宇喜多の軍が、大小寺城(現在の真庭市勝山)、篠向城(現在の真庭市久世)を攻略する。同年、宇喜多軍が、鷲山城(現在の柵原)、鷹巣城(現在の美作市)を攻略してから、後藤氏の本拠である三星城を攻め落とし、後藤勝基は自殺する。
○1579年(天正7年)には、毛利氏は織田氏と結んだ宇喜多氏と決裂する。そして、毛利が方の吉川元春が宇喜多の諸城を攻める。この時、大寺畑城、小寺畑城に籠もっていた宇喜多氏の家臣江原兵庫親次は、1580年(天正8年)には、城を明け渡して篠向城に移る。
○1580年(天正8年)には、宇喜多軍が、医王山城(現在の津山市吉見)を、また矢筈城(現在の津山市加茂)を攻めるも、両城はこれを防ぎ、宇喜多軍は撤退する。
○1580年の春頃からの医王山城(祝山城(いおうやまじょう)、現在の津山市吉見、因幡に通じる街道沿いにある)を巡る攻防では、毛利が方と宇喜多方が渡り合う。それというのも、「高田城(勝山町)が毛利の手に落ち、東の三星城が宇喜多の手に落ちると、中央部にあり山陰への道を押さえる」(津山市中学校社会科協議会・津山市学校教育研究所編「郷土津山ー中学校社会科(歴史)資料集」1981)といわれるこの城が、両陣営の最前線になっていく。
はじめは枡形(ますがた)城主の福田盛雅(ふくだもりまさ)があずかっていたのを、毛利氏は湯原春綱(ゆはらはるつな)を送って籠城させた。それからは、双方にらみ合いの持久戦に入り、毛利の本拠からは励ましと奮戦への褒美の約束をする。かたや宇喜多側からは、味方になるよう誘われるうち、宇喜多側はやむなく攻撃をやめ、引きあげる。
はじめは枡形(ますがた)城主の福田盛雅(ふくだもりまさ)があずかっていたのを、毛利氏は湯原春綱(ゆはらはるつな)を送って籠城させた。それからは、双方にらみ合いの持久戦に入り、毛利の本拠からは励ましと奮戦への褒美の約束をする。かたや宇喜多側からは、味方になるよう誘われるうち、宇喜多側はやむなく攻撃をやめ、引きあげる。
○1581年(天正9年)には、毛利方の葛下城主・中村頼宗が、宇喜多方の岩谷城を夜襲し、落城させる。
その実、彼らの後ろには、高田城(現在の真庭市勝山)を拠点にして、美作での勢力回復を狙う毛利氏がいた。
その時の岩屋城は、宇喜多氏の一族・浜田家織が守っていたのだが、中村頼宗は、地侍の32名を連れ、夜陰に紛れて北の絶壁をよじ登り、城に火をかけたから、浜田方はたまらない。右往左往する間に、本丸へとなだれ込み、浜口家職を追いやり、岩屋城を奪取してしまう。この戦功により、毛利輝元は中村頼宗を美作・岩屋城主とする。
その時の岩屋城は、宇喜多氏の一族・浜田家織が守っていたのだが、中村頼宗は、地侍の32名を連れ、夜陰に紛れて北の絶壁をよじ登り、城に火をかけたから、浜田方はたまらない。右往左往する間に、本丸へとなだれ込み、浜口家職を追いやり、岩屋城を奪取してしまう。この戦功により、毛利輝元は中村頼宗を美作・岩屋城主とする。
○1581年(天正9年)には、宇喜多方の篠向城も、毛利方に城を空け渡して退去する。
○1582年(天正10年)には、毛利輝元が、羽柴秀吉と和議を結び、その中で美作は宇喜多氏の領地とする。
○1583年(天正11年)には、これに美作の大方の武将が与しなかったことから、話は進まなくなる。毛利軍は、美作と備中から撤退する。
○1584年(天正12年)、宇喜多直家が、あくまで抗戦する竹山城(現在の美作市大原)の新免弥太郎を攻め、新免家を滅ぼす。これにて、美作の全域が宇喜多のもとなる。
○1584年(天正12年)には、毛利氏と羽柴氏との講和が成り、美作国は宇喜多氏の所領となると再び江原親次が城主となる。
(続く)
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