◻️75『岡山の今昔』江戸時代の三国(美作寛政の国訴(1798)、久米南条・北条郡村々一揆(1813))

2022-01-25 09:33:50 | Weblog
75『岡山の今昔』江戸時代の三国(美作寛政の国訴(1798)、久米南条・北条郡村々一揆(1813))

 18世紀の後半の岡山は、どのようであったのだろうか。1783年(天明元年)の美作・津山町中で「うちこわし」が度々起こっている。豪商などへの民衆による襲撃があった。おりしも関東では、1783年6月25日(天明3年5月26日)に浅間山の噴火が鳴動して噴火を始め、8月3日(旧暦7月6日)には全山が崩れる惨事が起こっていた。同じ年の津山町内に、連続して「米一揆」があったことが伝わっている。

 続いて、1797年(寛政9年)まで、幕府は美作に残る幕府天領の搾取を強めた。その翌年の1798年(寛政10年)、美作の天領228か村の代表格に広戸村市場分庄屋である竹内弥兵衛がいて、彼を中心に各村々の実情がつぶさに解き明かされ、やがて、総代5人の庄屋を江戸表に派遣することに決めた。

 ここに美作の天領228か村の構成は、播州竜野脇坂氏の一時預り領としての勝南、英田、久米南条、久米北条四郡のうち77か村が一つのグループ。二つ目は、久世代官所所管の大庭、西々条郡二郡66か村のグループ。三つ目は、但馬生野代官所所管の勝北、西々条、吉野、東北条、西北条五郡のうち五五か村のグループ。四つ目は久美浜代官所所管の吉野郡35か村のグループであった。

 そのことの起こりを簡単にいうと、当時、幕府領の年貢の3分の1は、毎年収穫時の津山城下にての米価に換算して、銀で納めることになっていた。ところが、1797年(寛政9年)のおり、幕府勘定方の勝与三郎がこの地・津山にやってきていうのには、それまで津山相場を割り引いて課税していたのを、そのことなくして課税するのに改めると。

 折しも、当年の米相場は急騰したため、これではならんと農民たちは悲鳴をあげた。激震が走ったと見えて、かかる村村の庄屋たちは、倉敷(現在の美作市林野)の福島屋や高瀬屋に集まって、どうしたらいいかを話し合う。取り急ぎ、なんと江戸へ出て、元に戻してくれるよう直訴をしようということになったという。

 1798年6月18日(寛政10年5月5日)、大庄屋を務める代表5人が、江戸へ向けて旅立つ。その面々とは、岡伊八郎(池が原村、現在の津山市大崎)、竹内弥兵衛(広戸村、現在の津山市広戸)、福島甚三郎(目木村、現在の真庭市久世)、国広利右衛門(中山村、現在の美作市大原)、小坂田善兵衛(海田村、現在の美作市美作)にて、同月7月6日(旧暦5月23日)には、江戸に到着したという。

 次いでの7月18日(旧暦6月5日)には、幕府勘定方の勘定奉行柳生主膳正に嘆願書を提出したものの、所管役所の添書きがないとの理由で受取りを拒否されてしまう。
 そればかりか、その翌日には国広が奉行所へ囚われてしまい、残る4人は禁足のあと、7月24日(旧暦6月11日)には帰国を命じられ、箱根越えの通行切手を渡されたというのだが、とにかく、「とりつく島がない」ままに門前払いされてしまった。
 しかし、4人は、これで諦めなかった。帰途の途中から引き返して、密かに、直訴の機会を探った模様だ。

 かくて、このときの百姓の税減免の訴えは、紆余曲折の末というか、同年9月2日(旧暦7月22日)、老中松平伊豆守信明の籠を待ち受けての直訴に及んだ。ちなみに、ここにいう松平信明は、三河・吉田藩主で、奏者番、側用人を経て老中となり、定信とともに寛政の改革を進め、定信をして才知・才能のするどき人物と言わしめた。1803年(享和3年)に辞職するも、1806年(文化3年)に再任され老中首座となった。


 この直訴は幕府に認められ、咎(とが)めもなかったと記されている。これを「美作の寛政の国訴」と呼んでいる。

 1817年(文化14年)、幕府により津山藩の禄高が5万石から10万石に復した。この5万石加増の理由として、津山藩7代藩主松平斉孝に継嗣(けいし)がなく、この年、将軍家斉の子斉民を8代藩主として迎えた。1837年(天保8年)、但馬、丹後国中の一部と美作国、讃岐国との間で村替えをするよう幕府の命令が下された。1838年(天保9年)、この幕府の命令による領地村替えで小豆島のうち、西部6か郷(5千9百余石分)が津山藩領となったことがある。


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 久米南条・北条郡村々江戸越訴(1813)  

 1813年(文化10年)には、(略しては、美作において、久米南条・北条郡村々江戸越訴(略しては、「北条17か村江戸越訴」)が勃発する。
 そこで、この地域の支配の前史から起こすと、1603年(慶長8年)から1697年(元禄10年)までは、森藩領であった。その後、松平領、幕府領(天領)支配を経て、1747年(延享4年)から1812年(文化9年)にいたる66年間は、他の作州35か村とともに、関東を本拠地とする小田原藩(大久保氏)領となっていた。
 それが、次の年になると、どういう次第なのだろうか、かかる飛び地が、大坂代官所管下の幕府領に組み入れられる。これをきっかけとして、旧小田原藩となった村々が、同代官所・幕府を相手に起こした嘆願闘争である。
 その願いの主な筋としては、当該の村落においては、かねての慶長の頃から、「大庄屋山崎家そのほか中庄屋たち、これらと特別の関係のある村々庄屋たちは、自分たちだけで一切の支配関係ーとりわけ年貢納入関係を処理して、一般の庄屋ないしは小前百姓ー農民大衆には何ひとつしらせなかった」(大林秀弥「「文化十年久米南条、北条17か村江戸越訴事件」)ことがあるという。

 その実は、この領地替の噂のあった前年に、当該地域の農民たちによる、「一丸となって」の運動が展開されていた。具体的には、代表の4人が江戸に行き、これを思い止まるように、幕府当局や小田原藩に上申したものの、相手側は彼らの願いをはねつける。
 そこで、当該52か村中17か村落民になっての嘆願参加の村の内訳は、久米北条郡の中では、宮部下村は81名、神代村は72名)、戸脇村は55名)、桑上村は32名、桑下村は60名、福田下村は24名、里公文下村は29名、宮部上村は64名、中北下村は77名、中北上村は80名、油木下村は19名、油木上村は36名となっていて、以上が2000年時点では久米郡久米町内に属する。 また、同久米北条郡のうち、下打穴中村は67名、下打穴西下村は54名、下打穴西上村は12名、下打穴下村は55名となっていて、以上が2000年時点でいうと久米郡中央町に属する。
 それに、久米南条郡の中では福田村が47名となっていて、こちらは2000年時点でいうと、津山市に属する。

 そこで彼らとしては、次の戦略・戦術を考えざるをえない。改めて相談した結果は、西川陣屋支配の拒否と、大坂代官所の直支配をうけるようにさせてもらいたい、ということになる。同時に、当地伝来の家格による庄屋制度(前述)を廃止してもらいたい。つまり、これにかわって、近隣の幕府領並みの地域運営、すなわち「組合村一惣代による庄屋制」を施行してほしいというのである。


 これに対し、既存の村権力をあずかる「17か村大・中庄屋」一派は、猛然と反対するのであったが、村民側も、飛躍的惣代の名前で願書を大坂代官所・幕府当局に提出して、あくまでも要求貫徹をめざす、そのまま双方がにらみあっているうちに(約3か月というところか)、大坂直支配実現の願意は達成されないままに農閑期を過ぎ繁忙期にさしかかってしまう。
 そうしたところへ、迎えた秋の採り入れ後、闘争の第2幕が上がる。それが、江戸への「越訴」(今度は正式なもの)なのであった。この時、江戸へ向けて出発したのほ、多三郎、貞助の二人、急ぎ足で江戸へなんとか到達、月番の勘定奉行に届くように嘆願書を、公事方曲淵甲斐守に欠込(かけこみ)訴訟を決行したという、だが、当該の嘆願書の細かな内容は現代に伝わっていないなど、その周辺の事情についても今日にいたるまで大して判明していないようなのが、今更ながら気に掛かる。


 明けての1814年(文化11年)には、丸3年にわたる、この事件の一応の決着となる。それまで及びその中では、農民たちの大坂直支配の実現と、庄屋との関係の改定との、うち、前者の願いは、倉敷代官所支配への移管扱いとなったことから、前進。また後者の願いについて芳(かんば)しい改善は得られなかったものの、以前のような剥き出しでの村支配はできなくなったものと推察されよう。

 とはいえ、以上の結末にいたるまでの間には、これら農民の闘いの先頭に立った者の中では、17名が入牢(にゅうろう)し、年貢納入延期の首謀者と目されている2名が拘禁中に死亡していることがあり、あくまでも陳情・嘆願から始めた運動(ただし、後段の越訴については非合法)にあっても、農民側は当面の苦難の道のすべてを犠牲なしに乗り越えられなかったことがわかる。

(続く)

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