この今井町は、ほんとにいろいろとビックリさせられる街だった。
なんたって、初代天皇の神武天皇の陵がある地域。
とんでもなく長い歴史を持っている。
この街の中だけでも、いろんな時代に建った建物が現存していて、細かい比較が出来るのが面白かった。
まずは、そんな中でも一番古いという今西家住宅へ行ってみた。
この街は、戦国時代の街並みそのままに建っているから、道路がこんなふうに折れ曲がっている。
街の周囲には堀が巡らされ敵の侵入を防御し、建物がこのように出っ張っているおかげで、中を見通せないように、矢などを放たれても大丈夫なようになっている。
今西さんは、元々は河合さんというお名前だったのだけど、"今"井町の一番"西"に建っていて、織田信長ら西側から攻めてくる敵と戦って今井町を守りぬいたという功績で、「今西を名乗りなさい」という栄誉を受けて改名して今に至るとのこと。
中に入ってみると、すごく大きな規模の土間を持った、立派なお屋敷だった。
慶安3年(1650年)の建立で、日本で3番目に古いと言われるお宅だそうで。
めっちゃ立派な梁が3本渡され、この大きな建物を支えていたけど、1本だけヒビが入っていて、「それが一番古いのかな?」と思ったけど、実はそれが一番新しくて、近年の修復で渡し直した梁なんだって。
こういう立派な建物に使われている木材は、古ければ古いほど、質が良いものらしい。
だから、なるべく、新しい建材に変えてしまわないように、継ぎ足して、継ぎ足して、古いものを温存しているんだって。
徳川の時代には、今井にはそうとうな権力が有り、独自の通貨を持っていたほどだった。
今西家は自治権を委ねられて、今でいう警察のような権限も持たされていたので、この土間は悪いことをした人を裁く、お白洲でもあったんだって。
だから土間から、何段にも高く、段差がついている。
真ん中の一番奥のお部屋は、ご当主のお部屋だったらしいけど、奥様でもおいそれと近づけないようなお部屋だったって。
この梯子を登ったところのお部屋は「燻し牢」で、ここに罪人を閉じ込めて、下から煙を焚いて燻して懲らしめたところなんだって。
そんな機能を持ったお宅見るの初めて。
とても立派で、見ごたえのあるお宅だった~。
次に、もうちょっと新しい「今井まちや館」を見に行った。
新しいって言ったって、18世紀初期頃の建物。
一時は荒れ果てていたけど貴重な資料となり得る建造物ということが判明し、古材で再生し、江戸時代中頃の建物の様子を今に伝える大切な資料館となっている。
ここでは、「建物の古さは、屋根の勾配でも分かる」と言うことを教えていただいた。
例えばここは、2階に上がるとこんなふう。
屋根はすごく急な傾斜で、道の方に行くと立ってはいられない低さ。
2階というより、「屋根裏部屋」という様相。
窓も低~い所に小さく開いているだけ。
そして、そこから表を覗いてみても、道路は見えず、一階の庇が見えるだけ。
なんでこんなかというと、当時日本は厳しい階級社会で、商人なんて「士農工商」の一番身分の低い立場だったから、そんな者が高い所から道行くお侍さんを見下ろすなんて失礼極まりない行為だったから、道が見えないようになっているんだって。
もーーー、「なーるほーどねぇー!!!」と、ご説明に感動。
見ただけじゃ分かんないよね。
説明は、絶対に聞いてみた方がいい。
団体で来て、ふら~っと表だけ眺めて帰ってっちゃう人々、ほんともったいないと思った。
この当時は、土間にはお台所はこんな感じ。
そして、部屋の仕切りはまだ板戸。
家全体が暗いよね。
そして、部屋と部屋の間にちょっと高さのある仕切りがあったりするのは、今は敷いてあるけど当時はまだ畳が無くて、寝室には藁を敷いていたんで、それが広がってしまわないように工夫してあるんだって。
そして、2階は丁稚さんのお部屋で、夜は梯子を外してしまって、脱走できないようにしてあったんだって。
「へー!そうなのかー!」がいっぱい分かってほんと楽しい!
と、様々な細部を確認してから、「次はどこを見せていただくといいでしょう?」とご相談したら、「ここまで見て来た建物との比較をしたいのなら、時代的にここがいいのでは?」という高木家住宅さんを見せていただくことに。
高木家さんは、19世紀初頭の建物。
時代で言ったら幕末期の、上層町家とのこと。
おお!2階の窓が大きいね!
屋根の勾配も厳しくなくて、しっかり人が立てる高さが有りそう。
やっぱ全然違うね!
中を見せていただくと、お台所も使いやすくなってきてる♪
そしてお部屋も畳敷きで、部屋に段差が無い。
障子張り、襖張りになっていて、明るさも確保されているねぇ~。
このお宅でも、上に上がって細部をいろいろ見せていただけた。
当時を偲ばせるたくさんの物が展示してあって、興味深かった。
例えばこれは、当時の女学生さんの教科書。
熨斗袋の折り方、とか学んでいたんだなぁ!
そしてこれが、流通していた通貨かなぁ?
あと、「やっぱり説明聞かないと分かんないよなぁ!」と感激したのは、この壁。
表から見たら、ただの板張り・・・・・・・、
なんだけど、家の中から見たらこんな門になってる。
当時、地方の大名は、参勤交代などに莫大な金額をかけねばならず、お金に困ってこっそり豪商に借金しに来たらしい。
でも、それはおおっぴらには出来ないから、密かに連絡を取ってきて、日時を決めてそーっとやってきて借りて行ったそうで、その際にだけそっと開いて彼らを招き入れるだけに使われたのがこの門なんだって。
「へーーー、大名家の人がここに来て、ここに座って、こんな狭い所でペコペコ頭下げてお金借りて行ったんだー!」と思ったら面白かった。
すごい財力を持ったお家だったんなぁ!
そして、庇の話になって、「この通りは、明治天皇が来られた際に馬車でお通りになったんだけど、そもそも道幅が狭い所に馬車通すんだけど、庇が邪魔で通りにくいと30センチぐらい切られた」とおっしゃっていた。
えーーーー!天皇が一回通るだけの為に、その通り沿いの家の庇、全部切る????
もーーーーーー、ビックリした・・・・・・・。
大変ね・・・・・・・・・。
時代による建物の構造の変化も、時代時代によって異なる様々なエピソードも、とにかくめちゃめちゃ面白かった。
こんなにいろいろな時代の変遷を、この街だけで学べてしまうなんて、しかもいろんなものが当時のままに残っているなんて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
今井町のポテンシャル、半端ないよね。
感動。
「この平成のニッポンに、よくぞこんな素敵な街を立派に残してくださってる・・・・・・・」、と激しく感動だよ
でも、登録文化財の保護は本当に大変だと、みんなおっしゃってた。
昔は公費で9割は負担してもらえたけど、今はどんどん自己負担の割合を増やされてしまっているらしい。
しかも、「いざ修復」となっても、まずは自腹で支払いを済ませておいて、後から交付金が下りるから、最初にその財源を持ち合わせていないとならないと・・・。
個人のお宅で、これだけの規模の修復を賄おうとしたら大変な負担だよ・・・・。
そんなに苦労しても、「日本の財産」として大切に保存してくださってる心意気にも感動した。
そして、ここを「観光地!」として大々的に売り出さない姿勢も素敵だな、と心底思った。
世界遺産なんかに登録されてしまったら、この雰囲気がぶち壊しだよ。
ダメ、絶対ダメ。
なんなの???
今まで見向きもしなかったくせに、いざ「世界遺産に登録されました!」となったら、猫も杓子もゾロゾロと集まって・・・・・。
富岡製糸場?
韮山反射炉?
登録されるまで誰も行こうとも思ってなかったでしょうよ?
私の大好きだったハイキングコース、高尾山が、ミシュランに三ツ星付けられたせいで、2度と登りたくない、通勤列車並の大混雑で人の背中しか見えない、"のんびり"や"爽やか"の欠片もない、ただのミーハー観光地に成り下がってしまったショックから未だに立ち直れないワタクシとしては、この街にあの凋落を体験させたくない・・・。
人がワッサワサ集まって、ガヤガヤと騒がしくはしゃぎ、くだらねぇ物ばっか売ってる土産物屋が立ち並ぶ、お安い観光地に成り下がってほしくない・・・。
だから、今のままで、あまり人に宣伝することなく、平穏な今の暮らしを続けて行って欲しいと切に願う・・・。
本当に貴重な街並みだと思うから、大切にしたい。