1. ローザンヌ
本棚から一冊の地図が落ちてきた。スイスで買ったローザンヌの市街図だ。
ローザンヌは、スイスではジュネーヴに次ぐ、フランス語圏の都市である。レマン湖に
面し、自然の美しさと都会の猥雑さの両方を備え、中世の面影も残す坂の街と聞いて、旅
の行き先に加えた。
'70年代、私は息子と毎年のようにヨーロッパに旅をしていた。デンマークを皮切り
に、イギリス、フランス、ベルギー、オーストリア、そしてスイスへと。
フランス語なら大学の第二外国語で選択し、卒業後も語学学校で勉強を続けて、少しは
言葉のやりとりが出来た。
ローザンヌは名前のとおり、純真な優しい娘を連想させる、穏やかで小さな街だった。
パリから空路でジュネーヴに入り、空港バスに乗ると三十分で着く。
私は五歳の息子の手を引いて、古い大学や教会を見て回り、カフェでサンドウィッチを
食べ、余ったパンを手にしてレマン湖で白鳥と遊んだ。
夫とは別居をしていたが、まだ離婚はしていなかった。旅はいつも子供と二人だった。
自分を産んでくれた国に背を向け、外国を旅することで自分の美意識の世界に逃げ続け
ていた。
ヨーロッパの人がどんな絆で結ばれているのか、映画や小説やシャンソンから感じとる
だけで、実際に身近な手本は知らなかったが、少なくとも日本のホームドラマの親子、演
歌の女男、そして私が関わってきた世間とは違う筈だと思った。
悪い男と知りながら引きずられていく女と、女を不幸にしたという自責の裏側に勲章を
貼って歩く男の演歌というセンチメンタリスムには、馴染めなかった。
ジャック・ブレルのシャンソンでは、僕を捨てないで、僕は君の犬となろう、という言
葉をみつけた。シャルル・アズナヴールのシャンソンでは、女の心変わりの前でみじめに
なっている自分をそのままさらけ出す、男の描写を聞いた。
そこには女というジェンダーを賛美する視点と、賛美することを照れない柔らかな愛が
ある、と共鳴した。
それでも私はヨーロッパの男に恋をする気質ではなかった。
日本では人の顔を見ると不快になっていたのに、異国に身を置くと、道行く人の顔は私
とは関わりのない珍しい動物のように思えて気が楽だった。
そんな街角のそこかしこで、息子は「あ、お父様だ」と見知らぬ人を指して私をからか
った。たしかにどこか面差しは似ているが、異国の人である。子供の言葉には、お父様に
そばに居て欲しいという希望が隠されていた。お母様が信じなくても、僕はお父様を見つ
けたんだ、と得意げに装う、あるいはすねた態度が含まれていた。
旅先で、日暮れに私がホテルに戻ろうか、もっと先まで行ってみようかと迷っていると、
息子は必ず「見る」と一歩前へ進んで、私の手を引っ張った。
人垣の間へ、花畑の向こうへ、教会の中へ。お母様、あっちには面白いものがきっとあ
るよ、ここまで来たんだから、先へ進まなかったら後悔するよ、と言いたげに。
ローザンヌの後、私と息子はグリンデルワルト、インターラーケン、ルツェルン、ツェ
ルマット、チューリッヒ、サンモリッツ、とスイスの山と街を旅した。
パリの洗練された無関心よりも、スイスの人気のない山が私の性に合った。子供に原風
景を与えるなら、ローザンヌのような小都市がいいと思い始めていた。パリでは暮らせな
くても、スイスなら暮らせるかもしれない。
私と子供は地図を買って何度かローザンヌを訪れた。
そんな旅の思い出にふけりながら、本棚から落ちてきた地図を開くと、ところどころに
鉛筆で黒く囲んだ印がある。それが何の印か、すぐにはわからなかった。囲みの中の小さ
なフランス語の活字を読んで、それらに共通しているのは小学校の場所だとわかった。
あの時からもう三十年以上もも経ったのだ。
そう思える日が来ることを、あの時どうして想像できただろう。あの頃は目の前に立ち
はだかる険しい峠があった。それを遠く過ぎてきた、なだらかな丘のように懐かしむ日が
来るなど信じられなかった。
あの頃私は峠の前で逡巡していた。
'70年代の半ば、私はローザンヌで子供を入学させる小学校を探していた。何の手掛り
もなく、半分は自分が本気なのか確かめるかのように。
子供をスイスの学校に入れたら自分に何が起こるのか、いや子供の将来に何が起こるの
か、全く想像がつかなかった。それどころか、日本人がスイスの学校に入学できるのかさ
え知らなかった。
私と息子は、ローザンヌの坂の途中のすみれ色の日除けのあるホテルのバルコニーで、
まだ浅い春の日向ぼっこをしていた。五歳の子供は絵を描きながら、独り言を言っていた。
私はタンジェリンの汁の染みた新聞を広げて、不動産欄に見入っていた。見入ってはいた
が、どうすればスイスで部屋が借りられるのか、具体的な手立ては知らなかった。
三月の日差しに温まりながら、私は決して幸せではなかった。思い出しても心が凍るほ
どの重苦しい不安に囲まれていた。
バルコニーの下を登校するスイスの小学生の一団が通っていく。息子もあの中の一人に
なる日が来るのだろうか。それとも日本の社会で通知とともに自動的に日本の小学生にな
り、ランドセルを背負うのだろうか。その時私は自動的に日本のPTAになり、日本のペ
アレンツとティーチャーズの常識にがっちりと包囲されてしまう。
いやだ。そんなことはできない。
私は帰国するとすぐにスイス大使館に手紙を書いた。
本棚から一冊の地図が落ちてきた。スイスで買ったローザンヌの市街図だ。
ローザンヌは、スイスではジュネーヴに次ぐ、フランス語圏の都市である。レマン湖に
面し、自然の美しさと都会の猥雑さの両方を備え、中世の面影も残す坂の街と聞いて、旅
の行き先に加えた。
'70年代、私は息子と毎年のようにヨーロッパに旅をしていた。デンマークを皮切り
に、イギリス、フランス、ベルギー、オーストリア、そしてスイスへと。
フランス語なら大学の第二外国語で選択し、卒業後も語学学校で勉強を続けて、少しは
言葉のやりとりが出来た。
ローザンヌは名前のとおり、純真な優しい娘を連想させる、穏やかで小さな街だった。
パリから空路でジュネーヴに入り、空港バスに乗ると三十分で着く。
私は五歳の息子の手を引いて、古い大学や教会を見て回り、カフェでサンドウィッチを
食べ、余ったパンを手にしてレマン湖で白鳥と遊んだ。
夫とは別居をしていたが、まだ離婚はしていなかった。旅はいつも子供と二人だった。
自分を産んでくれた国に背を向け、外国を旅することで自分の美意識の世界に逃げ続け
ていた。
ヨーロッパの人がどんな絆で結ばれているのか、映画や小説やシャンソンから感じとる
だけで、実際に身近な手本は知らなかったが、少なくとも日本のホームドラマの親子、演
歌の女男、そして私が関わってきた世間とは違う筈だと思った。
悪い男と知りながら引きずられていく女と、女を不幸にしたという自責の裏側に勲章を
貼って歩く男の演歌というセンチメンタリスムには、馴染めなかった。
ジャック・ブレルのシャンソンでは、僕を捨てないで、僕は君の犬となろう、という言
葉をみつけた。シャルル・アズナヴールのシャンソンでは、女の心変わりの前でみじめに
なっている自分をそのままさらけ出す、男の描写を聞いた。
そこには女というジェンダーを賛美する視点と、賛美することを照れない柔らかな愛が
ある、と共鳴した。
それでも私はヨーロッパの男に恋をする気質ではなかった。
日本では人の顔を見ると不快になっていたのに、異国に身を置くと、道行く人の顔は私
とは関わりのない珍しい動物のように思えて気が楽だった。
そんな街角のそこかしこで、息子は「あ、お父様だ」と見知らぬ人を指して私をからか
った。たしかにどこか面差しは似ているが、異国の人である。子供の言葉には、お父様に
そばに居て欲しいという希望が隠されていた。お母様が信じなくても、僕はお父様を見つ
けたんだ、と得意げに装う、あるいはすねた態度が含まれていた。
旅先で、日暮れに私がホテルに戻ろうか、もっと先まで行ってみようかと迷っていると、
息子は必ず「見る」と一歩前へ進んで、私の手を引っ張った。
人垣の間へ、花畑の向こうへ、教会の中へ。お母様、あっちには面白いものがきっとあ
るよ、ここまで来たんだから、先へ進まなかったら後悔するよ、と言いたげに。
ローザンヌの後、私と息子はグリンデルワルト、インターラーケン、ルツェルン、ツェ
ルマット、チューリッヒ、サンモリッツ、とスイスの山と街を旅した。
パリの洗練された無関心よりも、スイスの人気のない山が私の性に合った。子供に原風
景を与えるなら、ローザンヌのような小都市がいいと思い始めていた。パリでは暮らせな
くても、スイスなら暮らせるかもしれない。
私と子供は地図を買って何度かローザンヌを訪れた。
そんな旅の思い出にふけりながら、本棚から落ちてきた地図を開くと、ところどころに
鉛筆で黒く囲んだ印がある。それが何の印か、すぐにはわからなかった。囲みの中の小さ
なフランス語の活字を読んで、それらに共通しているのは小学校の場所だとわかった。
あの時からもう三十年以上もも経ったのだ。
そう思える日が来ることを、あの時どうして想像できただろう。あの頃は目の前に立ち
はだかる険しい峠があった。それを遠く過ぎてきた、なだらかな丘のように懐かしむ日が
来るなど信じられなかった。
あの頃私は峠の前で逡巡していた。
'70年代の半ば、私はローザンヌで子供を入学させる小学校を探していた。何の手掛り
もなく、半分は自分が本気なのか確かめるかのように。
子供をスイスの学校に入れたら自分に何が起こるのか、いや子供の将来に何が起こるの
か、全く想像がつかなかった。それどころか、日本人がスイスの学校に入学できるのかさ
え知らなかった。
私と息子は、ローザンヌの坂の途中のすみれ色の日除けのあるホテルのバルコニーで、
まだ浅い春の日向ぼっこをしていた。五歳の子供は絵を描きながら、独り言を言っていた。
私はタンジェリンの汁の染みた新聞を広げて、不動産欄に見入っていた。見入ってはいた
が、どうすればスイスで部屋が借りられるのか、具体的な手立ては知らなかった。
三月の日差しに温まりながら、私は決して幸せではなかった。思い出しても心が凍るほ
どの重苦しい不安に囲まれていた。
バルコニーの下を登校するスイスの小学生の一団が通っていく。息子もあの中の一人に
なる日が来るのだろうか。それとも日本の社会で通知とともに自動的に日本の小学生にな
り、ランドセルを背負うのだろうか。その時私は自動的に日本のPTAになり、日本のペ
アレンツとティーチャーズの常識にがっちりと包囲されてしまう。
いやだ。そんなことはできない。
私は帰国するとすぐにスイス大使館に手紙を書いた。